【山崎慎太郎コラム】引退後は打撃投手になりましたがイップスに(笑い)

【無心の内角攻戦(27)】2001年のシーズンが終わり、僕を拾ってくれた仰木彬監督が辞められることになった。僕もクビになるんかなって思っていました。47試合も投げてやり切った感も満載でしたし、もうおなかいっぱいでしたしね。秋季練習も参加せんでいいと言われていたけど、いつまでたっても球団から連絡がない。家族でディズニーランドに行っていたらフロントの人から連絡が入り、「契約で球団に来て」って。「あれ? クビじゃないんですか?」「あれだけ投げた選手がなんでクビになるねん」って(笑い)。もう線引きしようと思っていたのに、1年延びちゃった…。

ただ、シーズン後に気づいたんですが、1500投球回まであと8回2/3で、一番近くの目指すところでした。監督が誰になろうと関係なかったですよ。02年も一軍に残るために頑張ったんですけど、これが落ちたり、上がったりでなかなか難しい。シーズン後半に近づいても足りなくて、藤田学投手コーチに「あと少し足りないんですけど…」って言いましたもん。

達成はあっけなかったですね。あと1/3に迫った10月2日のダイエー戦で9回に一塁走者が走り、それを捕手の日高剛が刺した。俺、最後何もしてないやん(笑い)。その翌々日、球団に呼ばれてクビになりました。中継ぎで9試合投げただけでしたが、もう達成感でいっぱい。アキレス腱も悪かったし、ダッシュもできんかったですもんね。結果も出せないし、思うボールも投げれてないし、通用しないと最後に感じた一年でした。二軍では若い選手とバッテリーを組んで教えながら投げ、今までの切羽詰まった感じじゃなく、すごく視野の広い1年になった。クビと言われたけど、現役を引きずることなく辞められましたね。

僕は引退するとは言ってないんです。もうテストもないし、声がかかることもない。でも何があるかわからないし、自分で含みを残してフェードアウトしたかったんで引退というフレーズは使いたくなかったんです。そのまま現役が終わった形になりました。

辞めた後は球団に残って打撃投手をやらせてもらったんですが…そこでイップスになっちゃった(笑い)。バッピって結構あるんらしいですよ。ストライクが入らず、グラウンドに行きたくないっていう精神的な病気。現役である程度、投げれていた選手の方がかかりやすいって言いますね。今まで打ちにくいボールをずっと投げてきたのに、L字ネットがあって急に打ちやすいボールを投げるのって難しいんですよ。投げた後で打者が首をかしげたりされたら、めちゃ気になって…。打ちにくいボール投げたんかな、ゴメンって。きれいに打ちやすいボールを普通に投げ続ける人ってすごいと思いますもん。周りが思っているより大変な仕事。もうやりたくないっす!

☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。

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