メジャーデビューアルバム「SION」福山雅治もカバーした「SORRY BABY」収録  9月13日はSIONの誕生日

自主制作盤から1年経たずにリリースされたメジャーデビューアルバム

SION実質上のデビュー作品、4曲入りの自主制作盤『新宿の片隅で』が発売されたのは1985年だった。この年といえば、バブル景気へと向かう最中、音楽シーンにおいても時代の雰囲気に飲み込まれたゴージャスさを纏う熱気は例外でなく、BOØWYの大ブレイク、レベッカ、レッド・ウォリアーズなど、多様化を極めながらも煌びやかにデコレートされたバンド勢が支持を得て活気づいていた時代だ。

そんな最中にリリースされた『新宿の片隅で』は、弾き語りという表現がしっくりくる楽器構成で、決して録音状態が良いとは言えない作品だった。音楽のメインストリームとは、質感もベクトルも全く異なった存在だったと思う。

そこから約9か月後、すなわち自主制作盤のリリースから1年も満たないうちにSIONのメジャーデビューアルバム『SION』がリリースされる。

極上のグルーヴを得たSIONが歌った世界観とは?

レコードのA面1曲目「風向きが変わっちまいそうだ」に針を落とすと、骨太なドラムが重たくロールする。

ドラムスはかつてルースターズにも在籍した池畑潤二。池畑の他にも同じくルースターズの花田裕之、元ロッカーズの穴井仁吉。また、このリリースの後年、90年代にはザ・スリルに在籍し、数々のロックンローラーのサポートミュージシャンとしても名演を刻んだサキソフォン・プレイヤー、スマイリーなど、これまで幾度となく修羅場をくぐり抜けてきたブルースやロックンロールを自らの基盤とするミュージシャンがバックを固め、SIONは、これから先、今に続く長い航海の旅路に立った。

 この街じゃ 誰もかれもが
 なにか企んでるように見える
 下りたばかりの駅の構内で
 有り金全部ブーツに突っ込んだ

メジャーデビューアルバムで歌われたSIONの世界観は、自主制作盤の延長にある自らの物語だった。これまでSIONがライブハウスで歌い続けてきた楽曲で構成されていた。アマチュア時代の集大成と言ってもいい内容にも関わらず、そこには今の場所に留まることなく、だだっ広い海原へ船を出すかのように壮大さを感じた。それは、バックバンドとのアンサンブルという要因が大きい。極上のグルーヴを得たSIONが転がり出す序章と言っても良いだろう。

SIONにしか歌うことのできないたったひとつの真実とは?

SIONは、1979年に19歳で上京。SIONは、まさしく “新宿の片隅” というフレーズに相応しい、時間から置き去りにされた一角にあるアクセサリー屋でしばらく働いていたという。

当時の国鉄新宿駅の西口と東口をつなぐ連絡通路は、当時コンクリートが剥き出しで、すえた匂いがした。雨漏りがしていやな湿気があった。この通路に隣接した西口側の一角だ。戦後闇市の風情を残したバラックのような店が軒を連ねていた。ペットショップ、サングラス屋、いくつかのアクセサリー屋…。

隣接する当時通称 “しょんべん横丁” と言われた飲み屋街(現・思い出横丁)の路地には、いかがわしさと同時に、当時少年だった自分にとって到底感じることのできない悲哀があり、決して足を踏み込んではいけないと頑なに思った場所でもあった。

まさに日本一の歓楽街と謳われた新宿の “時代に置き去りにされた” 一角だった。この場所でSIONは自らをさらけ出し、歌として残したいくつもの物語を紡いでいった。その物語は、ある種の人々にとっては、心の奥に潜む、どうしようもないもどかしさに深く突き刺さる衝撃的なリリックの数々が散りばめられていた。つまりそれは、バブル景気へと向かう世の中で、ゴージャスさを身に纏い、享楽にふけながらもこのままではいけない、自分は何処に向かっているんだろう? と一抹の不安を抱えてた人たちの歌でもあった。

SIONの絞り出すようなしゃがれた声で紡ぎだされるリリックは、メジャーというフィールドを得て、そんな不安と真正面から向き合うことのできなかった人々の心に届くことになる。そしてそこには、SIONにしか歌うことのできないたったひとつの真実が剥き出しにされていた。

たったひとつの真実―― それは、自分の足でその場所に立っているかどうかだった。

 おふくろは行くなと泣いた
 知らない街でポリバケツをかぶって
 それでも笑っていたさ
 怖いものなんて何もなかったから

「街は今日も雨さ」でこう歌うSIONが新宿の片隅で眺めた風景、自らの歌うという宿命、決して世の中を否定するわけではなく、今の場所から今の自分を惜しげもなくさらけ出すその存在感は、神々しくもあった。そして、“ある種” の人々にとっては、心の奥を見透かされたような衝撃と、時代に浮かれるのではなく、自分の目と耳で感じ、自分の足で歩くという、ごく当たり前だが忘れていた生きていく本質だ。

つまり、1986年という熱に浮かれた時代背景を考えてみても、このデビューアルバムのリリースは大きな意義があったと思う。生きることの本質がお祭り騒ぎで覆い隠された時代に残したSIONの声は、カウンターカルチャーになったと言っても過言ではないし、今の時代にも通じる説得力を持ち続けている。それは、メジャーデビューにあたり普遍的な音楽の力を味方につけることにより、より一層強固なサウンドとなっていたという要因も大きいだろう。集結されたミュージシャンの技量と時代の流れに動じない心意気。これにより唯一無二の物語がリアリティを増しながらアウトプットされていったのだ。

メジャーデビュー35周年、SIONの物語は現在も継続中

このファーストアルバムに花田裕之の参加は自身にとっても大きな意義があったと思う。当時花田が在籍していたルースターズは、相次ぐメンバーの脱退、前年にはヴォーカルの大江慎也が無期限の休養に入る。窮地に立たされた花田は、自らがメインヴォーカルとなる道を選びルースターズを骨太なギターバンドとして再生させる。

そんな最中でのレコーディングへの参加だった。失意と試行錯誤の中で新たにバンドの舵を取る花田にしてみても、SIONの声が、紡ぎだす音が、その後の活動を示唆するような衝撃とモチベーションになったのではないかという予測はできる。

―― あれから35年の月日が流れた。池畑も花田も現在SIONのバックバンドTHE MOGAMIの一員に名を連ね、絶対的な信頼関係の中、ステージで、そしてサウンド作りの要として今も支えている。1986年のメジャーデビューによって転がり始めたSIONの物語は現在も継続中だ。

35年という月日の中でSIONの目に映る景色も大きく変わってきたと思う。それでもコンスタントにリリースされる作品の中で描かれる唯一無二の情景が多くのファンに支持され続けているのは、今も新宿の片隅で、ギターを1本抱えたライブハウスで見た景色を心のどこかに潜ませているからではいかと思う。

カタリベ: 本田隆

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