【追う!マイ・カナガワ】横浜の有名書店に謎の絵画(下)ついに判明「父の絵です」

伊勢佐木町に竣工した当時の有隣堂本店ビル=1956年、横浜市中区

 「もう、何年も前から気になっていたのですが」という疑問が、横浜市南区の男性会社員(53)から神奈川新聞社の「追う! マイ・カナガワ」取材班に届いた。伊勢佐木町(横浜市中区)の有隣堂本店にある絵が「作者名もタイトルも見たところありません。どんな経緯で飾られたのかも気になります」という。

 “ハマっ子の本棚”とも言える有隣堂本店に掛かる絵の正体は?

 ◇ ◇ ◇

 1909(明治42)年、現本店と同じ伊勢佐木町(現横浜市中区)で創業した有隣堂。今では神奈川・東京・千葉に約40店舗を展開する老舗書店チェーンだ。

 戦火で伊勢佐木町の店舗を焼失し、進駐軍の占領によって野毛の仮店舗で営業を余儀なくされていたが、56年、創業の地に地下1階、地上4階(後に5階を増築)の本店ビルを竣工(写真【1】)。「大理石を貼り、エレベータを備えた国内初の本格的専門店ビル」として、ハマの戦後の復興を象徴する建物だった。

 同社によると、開店当初の写真に、この絵は写っていた。保管してあった当時の建築雑誌にも「有隣堂ブックストアー 設計・施工 竹中工務店」と紹介され、絵も写っていたが、作者名は掲載されていないという。

 取材班は有隣堂広報と連携し、開店時を知る同社OBの知恵も借りながら取材を続けた。すると、手掛かりになりそうな情報が飛び込んできた。

 「絵画は本店が竣工した際に、施工会社の竹中工務店から寄贈されたらしい」

◆Tociauに心当たり

 さっそく竹中工務店(大阪市)に確認すると、同社から絵のサイン「Tociau」に心当たりがあるとの回答があった。

 本店ビルの設計で完成イメージなどをデッサンするパースを担当していたのが「光藤俊夫(としお)」という人物だった。

 同社や俊夫さんの著書によると、俊夫さんは建築や油絵を学び53年に竹中工務店に入社。55歳で退職するまで有楽町マリオン(東京)やソウル新羅ホテル(韓国)のインテリアなどを手掛けたという。昭和女子大で教壇にも立ち、2017年に亡くなるまで名誉教授を務めた。

◆サインは「しゃれっ気」

 同大を通じて長男の賢さん(61)=東京都=を紹介してもらえた。「確かに父の絵です。小さい頃、家族で『お父さんの絵だよ』と見に行った記憶があります」。突然の電話に賢さんは快く応じてくれた。

 結婚する際も、妻を連れて有隣堂の本店を訪れたという。「絵がまだあった事に感動し写真を撮りました」。父親の絵がある伊勢佐木町は、家族にとって特別な場所だったようだ。

 1930年に大阪で生まれ、絵を描くことが大好きだったという俊夫さん(同【3】=賢さん提供)。87歳で亡くなるまで個展を開くなど、絵は描き続けていた(同【4】=同)。「父のサインは全部Tociauです。auはフランス語の複合母音でoと読み、あの頃は絵画といえばフランスだったので父なりのしゃれっ気だと思います」。ピカソやダリの抽象画を好んでいたという。

◆自由な時代の喜び

 俊夫さんは鬼籍に入り、絵の題名などの詳細は分からなかったが、賢さんは「芸大の卒業制作と聞いたことがある」という。

 若き日の俊夫さんは何を思って描いたのだろうか。俊夫さんが著書に残した略歴には『1945年 強制志願にて海軍少年兵/9月に高松に入隊が決まる(人間魚雷)/8月淡路島にて終戦を知る』とある。戦争を生き延び、自由で新しい時代が始まった喜びを有隣堂ビルの仕事や、あの絵に込めたのかもしれない。

 賢さんは「高度成長期、父はさまざまな建物の計画に携われたと思いますが、現在、多くの建物の建て替えが進む中で、有隣堂さんが今もあの絵を飾ってくださっているのはただただ感謝」と語り、「久々に家族で見に行こうと思います」と言うのだった。

© 株式会社神奈川新聞社