転勤直後に前任校V 小嶺忠敏(76)=長崎総合科学大付監督= 「うれしかったに決まっとるよ」 選手権と小嶺先生・5完

今年の県高総体決勝で選手たちに指示を送る小嶺。勝負にこだわる貪欲な姿勢は今も健在だ=2021年6月、諫早市のトランスコスモススタジアム長崎

 小嶺忠敏(76)=長崎総合科学大付監督=が初めて冬の全国高校サッカー選手権を制したのは、国見を率いた第66回大会(1987年度)。だが、実はそれより3年前、小嶺にとっては「幻の選手権優勝」がある。島原商が帝京(東京)と両校優勝した第63回大会(84年度)。小嶺が39歳の時だった。
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 この年の春、小嶺は16年間勤めた島原商から国見に転勤していた。つまり、東京・国立競技場のピッチで戦っていたのは、約9カ月前まで小嶺の指導を受けていた子どもたち。遠方から勧誘したレギュラー数人については、転勤した後も引き続き自らの家に下宿させ、卒業までその成長を見届けた。紛れもなく「小嶺学校」の子どもたちが成し遂げた県勢初の偉業だった。

1985年鳥取国体の時の小嶺。国見に赴任して2年目の秋だった=1985年10月

 ただ、優勝翌日の長崎新聞をめくってみると、小嶺の談話は「九州のチームでもやれることを証明した」とベタ記事で短く掲載されているのみ。どこか他人行儀なコメントにも映った。自らも成し遂げたことのない快挙を他に譲る形になり、胸中はさぞ悔しかったのだろうか。あらためて本人に聞いてみると、意外にもあっけらかんとした答えが返ってきた。
 「そりゃあ、うれしかったに決まっとるよ。俺の子どもたちだから。だけど、もう新しい監督がいたから。昔の監督が出しゃばるわけにはいかんだろう」
 表立って喜ばなかったのは、周囲への気遣いから。自身も教え子たちの晴れ舞台を外から見守り、歓喜する姿を見て静かに感極まっていたのだった。
 ちなみに、この年の国見は小嶺が指導を始めた初年度ながら、選手権県大会の決勝で島原商と0-1の接戦を演じている。後に「アジアの大砲」と呼ばれて日本代表のFWとしてプレー、現役引退後はV・ファーレン長崎の監督も務めた高木琢也(53)=SC相模原監督=が2年生の時だった。
 赴任した4月当初は校庭をオートバイが行き交い、たばこでぼや騒ぎが起きたこともあった。部活が始まるとサッカーどころかキャッチボールを始める選手もいた。「夜に悪さをしないように、車で一人一人を自宅まで送り届けるまでが仕事だった」
 そんなチームが、県高総体の初戦敗退を機に猛特訓を開始。部員の心を入れ替えて、わずか5カ月で全国王者になるチームと互角に近い勝負を繰り広げたのだから驚きだ。そこから2年後の86年にインターハイを制し、翌年に選手権の優勝旗を手にしたのは必然とも言えるだろう。
 以降、国見が成し遂げた6回の選手権優勝は、すべて小嶺がもたらしている。
(敬称略)

 【略歴】こみね・ただとし 島原商、国見、長崎総合科学大付高の監督として全国大会(インターハイ、国体、全日本ユース、全国選手権)出場は100回を超え、優勝は17回を数える。91~93年、U-17、U-19日本代表監督。元県サッカー協会会長。南島原市出身。


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