【仲田幸司コラム】西武に捕手で入団した仲田秀司を差し置いて投手の特待生に!

興南高校野球部に入部!

【泥だらけのサウスポー Be Mike(6)】中学時代の同級生に誘われ興南高のセレクションに参加しました。投手で受験したのは200人ほどで特待生で入部を認めるのは3人という狭き門です。注目選手ではなかった僕はダメもとでブルペン投球を披露しました。

ブルペンは5レーンありました。僕はその一番左のレーンから投げました。自分でも球は速かったとは思うんです。でも、何せストライクが入らなかったですね。

捕手の後ろに土手があるんですが、そこにボスッ、ボスッと当たってしまうわけですよ。ただ、他の投手と違うのは僕のボールは土手に突き刺さっていきました。みんなの球は当たって地面に落ちていました。

それでもさすがにあかんやろなあ。受かるわけないわなあ。僕、本人は当然そう思っていたんですけどね。その当時の比屋根吉信監督がなぜか「気に入った。お前、ウチに来い」と言ってくださったんです。

僕は受かると思ってないので、那覇高校を第1志望で勉強を必死で頑張ってました。だから、いきなりそんなこと言っても親が納得しないと思いますと伝えたら大騒動ですよ。

セレクションの最中にもかかわらず監督が「クルマを回してこい。今からマイクの家に行くぞ」と家庭訪問です。

それから親に「マイクを俺に預けてくれ。絶対にプロに行く選手に育てますから」と説得してくれたんです。僕はまったく気づいてませんでしたが、監督には僕のポテンシャルを見抜く目があったんでしょう。

友人に誘われダメもとで受けたセレクションに合格です。友人は内野手で受験して残念ながら不合格でしたが、僕が興南高に入れたのは彼のおかげです。

そのセレクションで合格した選手の中には、当時の僕よりうんと有名な選手もいました。その一人はのちに西武でプレーした仲田秀司(元西武・捕手、バッテリーコーチ補佐など)です。

秀司は沖縄出身で地元でも有名な投手でした。受験も投手として受けていました。でも、監督が僕と秀司を呼んで「秀司よ、俺はマイクを投手で獲る。捕手で来るならお前も獲る」と話したんです。

秀司は「考えさせてほしい」とその場では答えましたが、のちにチームメートになりました。今振り返れば秀司はダイナミックな大きいフォームではなく、担ぎ投げのようなクセがありました。捕手として秀司を獲得した監督にはやはり見る目があったんでしょう。

秀司の心の奥底には投手への未練は残っていたんでしょうか…。直接、聞いたことはないですけど。でも、捕手として西武にドラフトされたんですから、比屋根監督に感謝しているかもしれないですね。

秀司は僕に言ってくれていました。「お前には負ける」と。「今までは投げる方だったが、受ける方になって球筋が違うのが分かる。お前のあの球は投げられない」と評価してくれていました。

さて、僕のボールが突き刺さっていた土手の話に戻らせていただきます。俺の投げたあのブルペンの一番左側レーン。入学してから分かることなんですけど、実はあそこだけ上に民家の洗濯の水が垂れてきてぬかるんでいるんです。

だから、僕のボールは柔らかくなった土手にめり込んでいたということになります。球威がすごいのではなく、偶然の産物だったんです。

となると監督の見る目も疑わしいものだと…そんなことを言ってはいけません。僕があの時、一番左のレーンから投げてなかったら興南に行くことも、プロになることもなかったかもしれない。なんか漫画みたいな話ですよね。

いくつもの偶然が重なり僕は興南高野球部の一員になりました。中1の1学期に水泳部を辞めるときに誓った「甲子園に出る」という目標へ突き進みます。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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