【大学野球】「日本一のマネジャーに」 苦難乗り越えた東海大初の女性主務、亡き恩師との約束

東海大主務・小川美優さん【写真:川村虎大】

監督交代後初めてリーグ単独首位に立った東海大、初の女性主務・小川美優さん

社会人野球の日本生命でも指揮を執った井尻陽久監督が今年2月に就任して以降、首都大学リーグで初の単独首位に立った東海大。ベンチの1番左で、スコアを書きながら試合を見つめるのが、1964年の創部以来58年目で初めて誕生した女性主務の小川美優さん(3年)だ。

1年生の11月から、マネジャーの中心となる主務を任され、2年が過ぎようとしている。その間には、新型コロナウイルスの感染拡大や部員の大麻使用による対外試合禁止処分など、様々な“事件”が起きた。それでも、名門・東海大の復活に力を尽くすには理由があった。

25日に川崎・等々力球場で行われた首都大学野球1部リーグ。東海大はここまで全勝だった武蔵大を4-3で下し、井尻監督の下で初めて単独首位に立った。この日も、小川さんは落ち着いた様子で試合を見つめていた。

試合後に話を聞くと「大変なことの方が多いですね」と、本音も漏れる。1年前、チームは最悪な状況だった。10月に部員の大麻使用が発覚し、秋季リーグ戦の出場を辞退。3か月の対外試合禁止処分も受けた。監督も安藤強氏から井尻氏に変わり、部員も野球をできない日々が続いた。

「マネジャーや主将、監督さんを交えてミーティングしながら、寮の掃除など、やれることからやっていかないといけないのかなと思っていました。野球をやる以前に人間として見直していかなければならないという話を伝えてきました」。野球ができない中、できることを探し、選手が成長できる環境作りに徹した。

謹慎が明け、練習を再開すると、忙しい日常が戻ってきた。主務は監督の秘書役や準備、来客、OB対応など、仕事は多岐にわたる。世間からは厳しい目で見られ、より一層高いレベルが求められているのは感じていた。それでも職務を全うしようと、平日は午後10時を過ぎても業務を続ける日々だった。

恩師はダルビッシュらを育てた故・若生正広さん、常に言っていた「日本一のマネジャーに」

小川さんがマネジャーという役職を初めて経験したのは、埼玉栄高時代だ。当時、硬式野球部の監督を務めていたのは、宮城・東北高の監督としてパドレス・ダルビッシュ有投手らを育てた故・若生正広さん。その若生監督に誘われたのがきっかけだった。

野球を9人でやることすら知らないところからのスタートだった。ただ仕事に取り組むにつれ、いつしか野球が好きになっていた。気づけば、東海大でも野球部マネジャーという選択をしていた。「若生監督やお世話になっている人たち、応援してくれる人たちのためにも頑張ろうと思うようになりました」。今では、周りの支えが職務に当たる原動力となっている。

7月27日、若生さんが70歳でこの世を去った。小川さんは東海大進学後も、定期的に連絡を取っていた。最後の会話となったのは5月、春季リーグ戦が行われている最中だった。

「常に言われていたのですが、その時も、『絶対リーグ戦優勝して、ベンチ入って、日本一のマネジャーになって欲しい』って言ってくれました」。春は三つ巴の優勝決定戦で負けてしまい、惜しくも3位。全国大会への切符を手に入れることはできなかったが、まだ、チャンスはある。

「直接報告はできなくなってしまったんですが、今までやってきたことが正しかったと言うことと、ここまで支えてくれた感謝を返すと言う意味でも、神宮で日本一になりたいです」。恩師との約束を果たすため、そして名門・東海大を復活させるため。部の歴史で初めての女子主務は、2つの思いを背負って頂点を目指す。(川村虎大 / Kodai Kawamura)

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