さよならマリンパーク(1)念願の「サーカス水族館」誕生

色を識別できる能力を応用し、横断歩道を渡っているように見せる魚のパフォーマンスは今も続いている=京急油壺マリンパーク

 国内でも先駆的な水族館として多くの人に愛されてきた京急油壺マリンパーク(三浦市三崎町小網代)が今月30日、閉館する。ゆかりの深い人たちの証言を交えながら53年間の歴史を振り返る。

色を識別できる能力を応用し、横断歩道を渡っているように見せる魚のパフォーマンスは今も続いている=京急油壺マリンパーク
  「サーカス水族館」という一冊の本がある。1956年に発刊され、著者は末広恭雄東京大教授。のちの京急油壺マリンパーク初代館長である。

 従来の水族館のように珍魚の収集だけに終始することなく、魚の習性を生かしたショー仕立ての展示や、魚本来の動きを見せて不思議な生態を紹介する水族館の建設を提唱する科学小説だった。

◆66年に起工式

 その内容に京浜急行電鉄の石井千明専務(当時)が感銘を受けた。三浦半島の開発を託されていた石井専務は以前から三浦市・油壺にユニークな水族館を建て、沿線開発にもつなげたいと考えていた。

 当時は高度経済成長の真っただ中。国民の生活水準が向上し、余暇の過ごし方も多様化しつつあった。社としても成長性の高いレジャー事業に進出することで事業の多角化を進めようという思惑があった。県から旧県立三崎水産高校跡地約4万平方メートルの払い下げを受け、66年に起工式が行われた。

◆魚の習性を応用

 67年に入社し、95年から24年間にわたり館長を務めた樺澤洋さん(80)は面接試験で末広さんに言われたことを今でも鮮明に覚えている。

 「お客さんが素朴に思うような、魚の姿、形、しぐさの裏に隠れた仕組みや仕掛けをやさしく、楽しく見せる努力をしてほしい」。相手は魚類の権威。緊張して向き合ったが、難しい話は一切しなかった。

 当時東洋一といわれた大回遊水槽を備えた水族館「魚の国」は68年3月に完成。同年4月27日、念願の「京急油壺マリンパーク」が誕生した。

 紫外線を見分けられる特性を応用して算数の問題をカワハギが答える「魚の算数」、音を区別できるイシダイによる「魚の音楽教室」…。樺澤さんたちが知恵を絞って考え出した実演水槽の展示内容は、まさに末広館長の目指した「サーカス水族館」だった。

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