【仲田幸司コラム】練習中に水も飲めなかった時代、考えた作戦は・・・

学校近くの坂道でトレーニング

【泥だらけのサウスポー Be Mike(7)】ダメもとで受けた興南高のセレクションで僕はまさかの合格です。投手では3人だけの特待生となりました。比屋根監督が僕の家にまで来て、親父に頭下げて「俺に預けてくれ」と直談判してくれました。

そんな大騒動があって、僕は興南高野球部に入部したわけですが、そこからトントン拍子というわけにはいきませんでした。そんなに甘くはありません。

3年生には後に大洋からドラフト(1981年4位)されるエース・竹下浩二さんがいました。チームとしてはそういう柱になるエースがいる余裕というのでしょうか、1年生を使う必要もなかったんでしょう。僕はほとんどマウンドでは投球させてもらえませんでした。

興南高には独特のマラソンコースがありました。そこで毎日10キロくらいのランニングをさせられました。そして、腹筋、背筋をとにかく鍛えておけと言われ、ひたすら鍛錬に努めました。ボールを持ってやることといえば遠投だけでしたね。

野球で有名な名門校ですし練習は厳しかったですね。当時は水も飲んだらいけないという時代ですよ。そんなときに僕ら、1年生が取った作戦も今はいい思い出です。

僕らの球場の周りにはサトウキビ畑が広がっていました。フリー打撃でファウルボールや場外に飛び出した打球が、その畑に飛んでいくわけですよ。そのボールを1年生が取りにいかないといけない。

僕らは早朝から真っ先に球場に行って、バケツに水を入れて畑のあちこちに配置しました。そして練習前に、畑に飛んでいったボールを捜索しにいく順番を決めるんです。

1年生の雑用である球拾いですが、これは水を飲むチャンスです。早く自分の順番が来いと思っていて、いざ、サトウキビ畑に入っていくとボールを探さずバケツを探すんです。

そして「よし見つけた!」と思ったら、なんとバケツに砂が入っているんですよ。考えることは同じなんでしょうね。こんな嫌がらせをする先輩もいたわけですよ。そしたら、あっちのバケツはこっちのバケツはと見るんですが、どれにも砂が入っていた。

もう水は飲めないとあきらめて、横にあるサトウキビを折ってかじってやりましたね。やっぱり沖縄の夏は暑かったですしね。練習よりも、そっちのつらさが精神を鍛えてくれたかもしれません。

1年生は昼休みのグラウンド整備も日課でした。すると時間を見計らって親父がプロテイン入りの、イチゴやゴーヤーを入れたドリンクを毎日持ってきてくれました。そんな毎日を過ごすうち、自然と体力がついていったんだと思います。

ひと夏が過ぎました。8月になって3年生の夏の甲子園が終わりました。残った2年生、1年生で新チームになりました。そのタイミングで僕は初めてブルペンで投げさせてもらいました。

そこから練習試合、公式戦でも投げさせてもらうようになりました。確か新人戦の決勝の相手が沖縄水産で、比屋根監督は僕を投げさせなかったんです。そこには敵に手の内を見せないという裏があったんですね。次の甲子園をにらんだ戦いは始まっているんです。

春には2年生になり1年の新入部員が入ってきます。そのころには試合で投げる機会も増えていました。基礎体力をつけ、実戦経験を積んだ僕は甲子園への道のりを歩んでいくことになります。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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