【仲田幸司コラム】PL学園戦で話題の1年生・清原と対決

「KKコンビ」桑田(左)と清原の1年生コンビ

【泥だらけのサウスポー Be Mike(13)】3年春の選抜が終わると全国の強豪校と練習試合を重ねました。5月には沖縄で行われた招待試合で徳島・池田を完封。自分の名前が高校野球界で大きく取り上げられました。

その後、同月の大阪遠征では名門のPL学園との試合も経験しました。試合前には中村順司監督からこんな話を聞いていました。

「今年はね、1年生にすごくいい選手が入ったんですよ。投手の桑田と野手の清原。よろしく」

あの、桑田真澄と清原和博「KKコンビ」が1年生としてチームに加わっていました。後に夏の甲子園、1年生エースと4番で大会を制したチームです。

まだ中学から高校に入ってきて1か月のころですよ。それで監督の口から個人名が出てくるんだから、期待の高さがわかります。

その試合では桑田は登板しませんでした。清原は出てました。詰まりながらライト前にヒットを打たれた記憶があります(実際は右中間二塁打)。

試合は打ち合いみたいになった記憶があるんですが、8―5くらいで勝ったのかな(実際は3―1で勝利)。勝ったことは覚えているんですがね。最近はもう、何でも忘れっぽくてね(笑い)。

中村監督から話を聞いていましたから、清原のことを意識はしましたね。当時はまだ体の線も細かったですけど、身長が大きいのはずばぬけていましたね。

あと中村監督はこんなことも言っていました。「桑田、清原、この2人はプロに行くだろうから、行った時にはかわいがってあげてくれよ。君は絶対に先にプロに行くから」。興南の比屋根監督もそうですが、多くの才能に触れてきた指導者の見る目はすごいんだなと、今になって感じますね。

清原は自叙伝で当時の僕との対戦のことを書いてくれているはずなんです。(上級生が仲田攻略に苦しむ中)高1の時に興南・3年生の仲田さんから打ったヒットが僕を救ってくれたと。もともとは投手志望で「4番・エース」が理想だったものの、ここから中心打者へ成長していった。そのまま甲子園に5回出場しているのだから、大したものですよ。

余談ですが、このころは高校球児としていろんなメディアに取り上げてもらえるようになり、ファンレターもたくさんいただきました。

高校野球の雑誌に限らず女子中高生が読むような雑誌の表紙になったりもしたので、自分で言うのはあれですが、それはもうモテました。

毎月段ボール何箱きたか。本当に読むのが大変でした。ちゃんと一応読んでました。いや、最初は読んでいましたが、途中から読むのが大変になってきました…。
そういう事態も予想して、送ってくれるファンの方々も賢くなってくるんですよ。封筒に「写真在中」と書いてあって、それは気になるわけですよ。

「どんな子やろ?」とかそんなことが気になって、ドキドキして開けるわけですがね。もう興味津々です。でも、親父にバレて全部、没収ですよ。「何を考えとるんだ!」って。

「野球に打ち込め。大事なことから目を背けちゃいかん」とね。もちろん、僕もそんなつもりはないですよ。一番は野球だとちゃんと分かってましたけどね。
こういう思い出も大事な青春の1ページですよ。

話を野球に戻します。「もう一度、甲子園に戻る」。これは僕だけに限らず、他のメンバーも口には出さずとも一緒でした。

夏の沖縄県大会では序盤から順調に勝ち進んでいきました。最初はほぼコールド勝ちなので肩も休められました。ただ、宿敵・沖縄水産との決勝を目前にアクシデントが僕を襲います。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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