【仲田幸司コラム】沖縄県大会 仲田と沖縄水産・比嘉の同姓バッテリー対決制したのは・・・

高校時代のチームメートと

【泥だらけのサウスポー Be Mike(14)】ついに3年生最後の夏がやってきました。最初はチーム内のライバルに勝ち、エースになる。そして、県内のライバルを打ち負かし甲子園というのが目標でした。

でも、高校3年生の最後の夏には全国の舞台で頂点に立ちたい、その先のステージはプロなんだと目標がだんだんと高くなっていました。

そのためには沖縄県大会を勝ち抜かないといけません。ベスト8まではだいたい、コールド勝ちとなるケースが多かったので肩も休ませられていました。

そして、大方の予想通り宿敵の沖縄水産との決戦となりました。これに勝たなければすべては台無しになる。高校生なりに相当に入れ込みすぎていたのでしょう。どうにも体調が悪く、僕は自分の異変に気づきました。

1992年のヤクルトとの優勝争いの話になりますが、あの10月6日の首位攻防戦の当日に僕は38度以上の熱を出してしまったと、この連載に書きましたよね。体調不良を押して登板し、広沢さんに打たれたソロ1本で0―1で負けた試合です。

あれと同じようなことが、沖縄県大会決勝の時にも起こりました。熱も出るし、肩もおかしい。体温を抑える薬、肩の痛み止めの注射を打ってもらい試合に臨みました。気持ちが入り過ぎたんでしょう。

いかに大事な試合なのか。頭と体が反応し過ぎてしまった。監督を始め周囲の大人は心配しました。でも、自分が投げないと始まらない。極端に言えば腕がちぎれても投げてやる。そういう気持ちでした。

1、2回戦ならまだ仲間に託すこともできますが、決勝戦です。戻らないといけない甲子園という場所を目前にしているわけですよ。

決して相手は簡単に勝てる相手でもありませんでした。沖縄屈指の好投手・比嘉良智を擁する沖縄水産。後にロッテからドラフト1位指名を受ける逸材との投げ合いです。沖縄県史上初のドラ1選手でしたからねえ。ロッテの監督が稲尾和久さんだったころです。

また、どういうわけか興南バッテリーは仲田幸司と仲田秀司(後に西武)の仲田バッテリーなら、相手も何と比嘉バッテリーだったんです。仲田姓、比嘉姓は沖縄には多い名字ですが、それでも珍しいことです。

だからこそ、この当時を知る沖縄県の高校野球ファンには深く印象に残っていると思います。

試合は1回に興南が二死満塁から6番・西泊の中前2点適時打で先制。6回は5番・新里のソロで3―0の展開となりました。

7回、沖水の反撃を受け5番の比嘉(茂)のソロで1点を失いましたが3―1で甲子園の切符を手にしました。体調不良に襲われながら、僕は沖縄水産打線を2安打1失点に抑えることができました。

決勝は本当に体調が悪かったですが、何とか一人で投げ抜きました。振り返れば武勇伝ですが、昨今は高校野球での投手の球数制限などがよく話題に上がるように、今なら登板回避となったんでしょうか。当時の僕はどうしても投げたかったですが。

何はともあれ、我々は沖縄県を代表して夏の甲子園に出場することが決まりました。自分にとっては3回目の聖地。最後の夏、プロへのアピールの舞台へ僕は飛び出していきました。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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