52年ヘルシンキ五輪「フジヤマのトビウオ」の悲運とザトペック

水連会長を務めた古橋広之進氏(96年)

【越智正典 ネット裏】1952年、飯田徳治は打点王になった。2年連続打点王である(86打点、2位南海堀井数男84打点)。栄光の南海ホークスの4番になる日が近づいている。

52年はフィンランドの首都、人口40万人のヘルシンキで第15回夏季五輪大会が開かれた年である。五輪開催市としては小都市であったが見事に運営され、成功した大会である。7月19日、小雨のなかで開会。私は北海道釧路でラジオを聴いていた。開会式前半は飯田次男アナウンサーが実況、後半は志村正順アナウンサー。志村アナウンサーがフィンランドの森と湖が美しいと伝えたあと、入場を終えた日本選手団を「デレゲーション」と言った。飛躍するようだが、改めて戦争が終わったのを実感した。もう同じ雨でも「出陣学徒壮行会」ではない。

43年10月21日、明治神宮外苑陸上競技場(国立競技場)、首相東條英機が壮行の辞「…皇道宣布の大御戦に参加の栄光を荷わる諸君…」。77校3万5000人の学徒が制服制帽、ゲートルを巻き、三八式歩兵銃を肩に行進。出陣して行った。女子生徒ら5万人が見送った。

でヘルシンキ大会、あまりにも悲運であったのは「フジヤマのトビウオ」水泳の古橋広之進であった。47年、48年、相次いで世界新記録を樹立。占領軍の対日政策のひとつであったのだろうか、49年全米水泳選手権に派遣されて快勝。前東京五輪のときの式典課長、水泳界の先輩、松沢一鶴氏によると、米水泳監督キッパスが力泳の古橋、華麗な橋爪四郎の泳ぎを水中カメラで撮影、解析を急いでいたのがあとでわかった。これも対日政策だったのだろうか。日本競泳チームはこのあと南米ブラジルを訪問。在留邦人を慰問。このとき古橋は赤痢に感染し、ヘルシンキまでに体力が回復しなかったのである。入賞の6位もなく、400メートル自由形で8位であった。「古橋を責めないで下さい」。飯田次男アナウンサーが叫んでいた。

話題をさらったのは男子陸上、チェコのザトペックだった。5000メートル、1万メートル、マラソンで優勝。夫人ザトペコワも女子やり投げで優勝。二人で金メダルをさらって行った。五輪ラブラブだったが、ザトペックは「心臓にナイフを刺して走る男」と言われた。59年、関大から阪神に入団した村山実が投げ出すとお客さんは「ザトペックだ」と言った。悲壮なまでの力投を「ザトペック投法」だと言った。

54年、飯田徳治は「4番」になった。背番号「23」が光った。

この年、背番号「60」をもらった新人捕手がいた。背番号からいうと、だれがどう見ても将来性は考えられなかった。

毎日毎日、プルペンにしゃがみ、先輩投手の球を受けるブルペンキャッチャー。「カベ」、壁であった。丹後ちりめんの機織りの町、京都府網野町生まれ。3歳のときに町役場の前で食料品の店「野要」を営んでいた父親が出征、戦死。母親が「住江織物」に働きに出る。大好きな竹輪は祭りの日にしか食べられなかった。名前は野村克也、契約金ゼロ。「カベ」なのだから当然である。給料は5000円。前の年に西鉄に入団した豊田泰光は50万円で3万円だった。 =敬称略=

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