幻に終わった「松坂バッティングスクール」開校

キャンプ恒例の打撃練習を行った松坂(20年)

【楊枝秀基のワッショイ!スポーツ見聞録】世代を超えて国民に愛されるスター。アラフィフのわれわれの少年時代「ミスター・プロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄氏(巨人軍終身名誉監督)がそういう存在だった。

長嶋選手は僕がまだ1歳だった昭和49年(1974年)に引退した。もちろん、古い映像以外でプレーを見た記憶はない。それでも、この人は特別で人々の関心を一身に集めている人物なのだというのは、子供でも容易に理解できた。

時を超えて「平成の怪物」松坂はどういう立ち位置にいるのだろうか。98年、春夏の甲子園で連覇。夏の決勝はノーヒットノーランだった。

プロ1年目の99年は16勝で最多勝、新人王などを獲得。年末の新語・流行語大賞では「リベンジ」で年間大賞に選ばれるなど話題に事欠かなかった。

2007年のメジャー移籍1年目でのワールドシリーズ制覇。09年はWBCで2大会連続世界一、MVPと人生の絶頂にいた。

その後はケガとの闘いが続いた。15年からNPB復帰を果たしたが、目立った活躍は中日で6勝を挙げカムバック賞を取った18年くらい。20年から西武復帰も、戦力としてマウンドに戻ることはできなかった。

それでもだ。改めて、松坂が引退するという現実が世間への影響力を浮き彫りにしている。

チケット、グッズ、公共交通機関の売り上げなどハンパないだろう。映像、活字、ネットメディアでも連日、記事が取り上げられる。

今の時代の表現方法を使えば、日本最高峰といっていい「インフルエンサー」に位置付けられるだろうか。

松坂の元には「使用してください」の意味を込めた野球道具はもちろん、健康食品、健康飲料、アパレルなどが山ほど届けられる。令和になっても「平成の怪物」は企業、メーカーから頼られ続ける存在だ。

私事だが、わが家には未就学児が2人いる。40歳を越えて子宝に恵まれた事実を、当時の松坂に報告したところ温かい言葉をいただいた。

「おめでとうございます。もし、お子さんが男の子だったら僕がバッティングを教えてあげますね」

当時は肩を痛めリハビリ中だった。故障中ということで取材対応も制限していた。そんな中、あくまでプライベートという形で言葉を贈ってくれた。

子供たちは2人とも娘だった。「松坂大輔バッティングスクール」への入校は夢と消えた。

ただ将来、このエピソードを聞けば、娘たちは松坂ファンとなるだろう。そして、次の世代にも「平成の怪物」を語り継ぐだろう。

僕も関わった一人として人間・松坂大輔を表現し続けていく。引退しても松坂担当。今後の活躍も見逃しません。

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