ヤンキースにも祝福された日本のゲーリッグ飯田徳治

晩年の飯田徳治(63年)

【ネット裏 越智正典】1957年、南海10年、監督鶴岡の温情で国鉄スワローズに移籍した飯田徳治はみんなに慕われた。分け隔てがなかったからである。

49年秋、日本職業野球連盟からこの新球団にマネジャーで派遣された36年入団の名古屋軍の二塁手、小阪三郎は「遠征に出て夜の食事に一人一本ビールを付けても呑めない選手がおりますでしょ。サイダーを付けておかないと、こんなことからチームに波風が立つんですよ。スキヤキのときに選手一人にひとつ玉子を付けても足りなくなるんです。ところが山盛りにして食卓に置いておくと余るんです。不思議ですね」。

小阪のオハコ話は審判二出川延明。「内野の凡ゴロでも一生懸命一塁に走って行くと、タイミングはアウトなのにセーフ。オマケをしてくれるんです」。戦前の職業野球を活写している。

鹿児島県指宿キャンプ。国鉄の宿、浜田屋旅館は品のいい料亭のような旅館だったが、プロ野球を迎えるには慣れていなかった。準懐石料理ふうで肉がない。すると飯田はお手伝いさんに頼んで鍋を持って来てもらって海鮮類を鍋にして選手一人ひとりに取り分け「お食べ」「お食べ」。飯田は食事が終わってから渡り廊下の先の彼女たちの部屋にお礼を述べに行っている。

飯田は国鉄第1年の57年、盗塁王(40盗塁)、33歳だった。飯田は後楽園での3連戦の第1戦が終わると、ユニホームのシワをのばし、ハンガーに掛け、ロッカーに納めて行ったがスパイクは持ち帰った。翌日、飯田のスパイクはピカピカにみがかれていた。底の金具も手入れされていた。川崎球場で試合が終わってからも同様であった。

飯田は不屈の大記録を戦い取る。母校、浅野中学の校訓は七転び八起きではなく「九転十起」である。

南海入団2年目の48年の9月12日、後楽園での金星16回戦から58年5月24日、甲子園での阪神7回戦まで1246試合連続出場の日本記録を達成した。南海での1078試合、国鉄での168試合。記録が断たれたのは不養生からでも不注意からでもなかった。

6回、一塁走者だった飯田は「バンビ」こと佐藤孝夫のヒットで三塁を狙って二塁を回ろうとしたときに右足のアキレス腱を切ったのだった。タンカで退場、阪大病院に運ばれた。全治3か月。アメリカではヤンキースの一塁手、ルー・ゲーリッグが2130試合連続出場の大記録を樹立しているが、あの終戦直後の食料事情や大阪→東京の移動が20時間。列車のなかでは水筒の水しか飲めなかったのを考えると、飯田も立派であった。

後年、娘の優子さんが大学の修学旅行でニューヨークのヤンキー・スタジアムを訪れると、メッセージボードがゆっくりまたたいて「日本のルー・ゲーリッグのトクジ・イイダの愛娘さんを心から歓迎します」。優子さんはその晩、家にデンワをかけた。「パパ、ありがとう」。

流石の飯田にも現役のユニホームを脱ぐ日が来る。63年かぎりで引退。出場1965試合、1978安打、969打点、390盗塁(81年殿堂入り)。 =敬称略=

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