55年南海日本一の祝勝会で…泥棒を殴り倒した大沢啓二

【越智正典 ネット裏】1955年、飯田徳治は南海リーグ優勝の最高殊勲選手に選ばれた。セ・リーグの最高殊勲選手は巨人川上哲治。もし、という話だが飯田夫人麗子さんがたとえば、うちのひとは銀行に勤めていますと言ったら、プロ野球をよく知らない人ならなるほどと肯いたにちがいない。腰が低く、それでいて立ち振る舞いがきちんとしている。現役、コーチ、監督…ずうーと濃紺の背広でとおしている。

翌56年秋、鶴岡は飯田を生まれ育った横浜に還そうと国鉄移籍を決めた。

世の中、つらいことが多い。つらいことから始まるのだろうか。56年3月6日、鶴岡夫人文子さんが逝った。胃がんだった。まだ33歳であった。

左腕投手、広陵中学、明治大学、明電舎、岩本信一(のちに中日監督に就任した水原茂に乞われてドラゴンズの寮長、愛称『中隊長』)は余りのことに涙をこらえることはできなかった。

「終戦直後、わしらは中百舌鳥の合宿所に住んどった。『親分』ちも親子三人が6畳一間。長男の泰ちゃん(法政大学監督)が夜泣きをすると、あねさん(文子さん)は、あした試合がある。みんながねむれないと申し訳ないと泰ちゃんを抱いてひと晩じゅう合宿の庭を行ったり来たりしとってくれたんだ」。岩本信一夫人喜久子さんは声をあげて泣いた。

文子さんは、夫の勲四等旭日小綬章の叙勲も知らず(92年1月18日、大阪ミナミの南海サウスタワーホテル祝賀会)、59年10月31日、悲願の日本シリーズ優勝、日本一のパレードを見ることもなく逝ったのである。御堂筋のいちょうが黄金色に輝いていた。紙吹雪が舞った。のちぞえの一子さんもよく出来たひとで、午前11時、パレードのオープンカー1号車の運転手さんに、これ鶴岡のとなりにおねがいします、と文子さんの位牌をそっとたのんでいた。1号車には鶴岡が乗車する。

この年のペナントレースの殊勲はいつももの静かな杉浦忠。54年早春、静岡県伊東球場での立教大学の練習会、テストに愛知県挙母高校からやって来たときはオーバースロー。「あのあと、上から投げるとメガネが鼻から落ちるので落ちないように下から投げたんですよ」

最高殊勲選手、防御率、勝率1位。38勝4敗。「南海ホークス四十年史」(編、刊、78年南海球団)が38勝4敗を詳しく伝えている。対大毎7勝2敗。対東映7勝0敗。対西鉄7勝1敗。対阪急9勝0敗。阪急は杉浦から四球4、本塁打0。巨人との日本シリーズは天運、第4戦が雨で一日のび、4勝0敗。後楽園球場でストレートで勝利した。

東京遠征の宿舎、JR中野駅前の中野ホテルで祝勝宴。栓を抜いたビール2000本。宴げの1階大広間は“床上浸水”。途中、ふと用事を思い出した外野手、大沢啓二(神奈川商工、立教大学)が部屋に戻るとドロボーが入っていた。大沢は一撃のもとに殴り倒した。大沢得意のパンチである。
話が2年前にさかのぼるが57年、国鉄スワローズに移った飯田徳治は心やさしくみんなに慕われた。 =敬称略=

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