【仲田幸司コラム】ついに最下位「PL学園よりも弱いんちゃうか」

吉田監督(左)とがっちり握手(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(23)】1985年の虎フィーバーを2年目の一軍投手として体感しました。先発ローテではなく、谷間の先発という立場でした。それでもプロ初勝利を含む3勝を経験させてもらい、少しは優勝に貢献することができました。

勝つこと、優勝すること、日本一になることがこんなにすごいんだ。どこに行っても大歓迎されますし、本当に貴重な経験をさせていただきました。

翌年の86年もチームは優勝争いするんだろうなと、僕としては思っていました。真弓さんも掛布さんも岡田さんもバースも健在ですよ。若手の僕もしっかり戦力になって頑張らないといけないと、意気込んでいました。

86年、3年目の僕の成績は先発ローテとして32試合に登板、26試合の先発で7勝12敗、防御率3・10というものでした。チームは夏場の「死のロード」といわれた長期遠征で優勝戦線から脱落。60勝60敗10分けの3位となりました。

2年連続3冠王を達成したバース以外の打者は、軒並み成績を落としていました。4月に4番の掛布さんが死球で右手を骨折し、その後も故障が相次ぎ、チームとしては苦しかったと思います。

僕自身としては85年に勝つ喜びを味わい、2桁勝利を目指して頑張ろうという状況でした。でも、チームとしては絶頂から過渡期にきている状態だったんだと思います。

諸先輩方には申し訳ない表現ですが真弓さん、掛布さん、岡田さん、佐野さんと切れ目のない打線の破壊力が少しずつ薄れていたんでしょう。

暗黒時代への入り口、かすかながらに嫌な流れが確実にひたひたと近づいていました。85年に僕は20歳でしたが、掛布さんは9歳年上ですからね。当時は選手寿命がそんなに長い時代ではないですから。

プロ20年なんて人はほとんどいませんでした。当時の僕の記憶というか、関係者からの話で印象に残っているのですが、選手寿命の平均は7年と聞いていました。

86年の3位からチームは一気に低迷していきます。87年には最下位を経験しました。ゴールデンウイークのころには「はいシーズン終了」などと揶揄されました。

それこそ世間では「PL学園よりも弱いんちゃうか」などと言われてしまう状況でした。

当然、観客も入らなくなります。真弓さんが打席に入ったときには、右翼席のファンが左右に大きく動く「真弓踊り」をするのですが、スタンドがガラガラなので踊り放題です。今では信じられない光景ですよね。

本来は絶対にあってはならないことですが、スタンドがガラガラだと集中力も欠ける。言葉は悪いですが「なれ合い」というか「傷のなめ合い」というか悪循環ですね。

87年限りで吉田監督が退任され、88年から村山監督に交代しました。そのシーズン途中で息子さんの病気療養のためバースが退団し、掛布さんは33歳の若さで引退を決意されました。

村山監督が抜てきした和田豊さん、大野久、中野佐資の「少年隊」が象徴するように、チームは若返りを急ぎました。ただ、それまでいたメンバーが日本一のすごい面々だっただけに簡単には外せない事情もあり、すぐに若手が代わりをできるはずもありません。

一気に大御所がバンといなくなって、一軍経験の乏しい若手が増えるという状況です。僕たちが論じられることではないですが、チームとして大きな壁にぶち当たった時期でした。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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