【仲田幸司コラム】「金田正一さん目指して背番号を34番に変えろ」

村山監督には大きな期待をかけてもらった(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(24)】チームが変革を迫られ、若返りを図る中で僕自身は中堅選手となっていきます。1988年は阪神のレジェンド・村山実さんが監督に就任されました。

村山さんは5年目だった僕に大きく期待をかけてくださっていました。ある日、監督室に呼ばれて「マイク、背番号の48番を金田正一さん目指して34番に変えろ」と告げられました。

金田さんといえば唯一の400勝投手であり、左腕のレジェンドです。その気持ちはありがたかったです。

しかも、大スターの村山さんの命令。逆らうわけにはいかないなと思っていたのですが…。

でも、思い切って言いました。「監督、申し訳ないです。僕は入団時から48番で5年目。愛着があります。『48番といえば仲田』になりたいんです」とお断りしました。

その場では「おう、分かった」と言われて収まったのですが、ところがどっこいですよ。

翌日に球場のロッカーに行ってみると、しっかりと34番のユニホームが置いてあるじゃないですか。

村山さんはもう、僕に打診した時点で発注してしまっていたんですよ。

僕は48を気に入っていました。ドラフト3位までだったと思うんですが、入団時に背番号を選ばせてもらえました。

空き番号が提示されて、好きな番号を選択できるんです。そこで48を選びました。入団会見では「よーやる選手ということで」とコメントしたのを覚えています。

そういう事情もあり、村山監督には「あっちゃー、ウソやろー! もう発注されとるやんか!」と言葉に出せない感情を覚えた記憶があります。

しかし、もう着るしかないですよね。グラウンドに出ていって、最初に村山監督と顔を合わせたときのことです。

「お前、ちょっと来てみ。背番号見せてみ。おう、よう似合っとるやんか」と言われ、肩を叩かれました。当時は複雑でしたが、気にかけていただいていたんですね。ありがたいことです。期待の大きさが分かります。

その証拠に88年は初めての開幕投手を任せていただきました。それだけに、僕の34番にこだわった村山さんの思いも分かります。

4月8日の開幕戦では広島のエース・北別府学さんとの投げ合いの末、0―3で完投負けでした。

今でも覚えていますが、帰りのバスの中で村山さんがこんなことを言ってくれました。

「マイクがこんだけのピッチングしているのに、野手のみんなはもっと反省してくれ。完投で3失点や。お前らは何とも思わんのか」

宿舎に帰ると村山さんの部屋に呼ばれました。負け投手なのに「監督賞」で10万円をいただいたのを覚えています。「今後も頼むぞ」と言っていただきました。

投手出身の監督です。僕たちの戦いぶりを投手目線で見てくれていたんだと思います。ありがたい話です。

初の開幕投手を経験させてもらった88年は29試合で17先発、6勝9敗1セーブ、防御率3・88でした。チーム自体が過渡期で苦戦が続いた中での成績ですが、言い訳はしません。村山監督は僕のことを辛抱して使ってくれました。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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