「ドヤ街」で労働者を支援する理由【上】 寿日雇労働者組合 近藤昇さん(73) シリーズ・令和に生きる No.1

「寄せ場」とは、日雇い労働者の就労をあっせんする場所のこと。かつて横浜・寿町は、東京・山谷地区や大阪・釜ヶ崎と並ぶ三大寄せ場に数えられ、労働者の活気があふれていた。その寿町を拠点に日雇い労働者や路上生活者の労働相談、生活相談などに携わって今年で35年。地域の人たちと始めた炊き出し活動も28年目に入った。コロナ禍という逆風の中、「路上で死んでいく人を出したくない」との思いで令和の3年目を生きている。

横浜・寿町(撮影:本間誠也)

◆コロナ禍のドヤ街 横浜・寿町は―

感染者数がピークの8月、寿町のコロナ感染者について横浜市の中区役所に確認したんです。そしたら簡宿(簡易宿泊所)から(感染者は)出てるけど、1週間で片手(5人)に行かない程度と言ってました。クラスターの発生はない、と。こうした(簡宿が)密集した場所ですから、われわれも心配していたんですが、簡宿を起点に(コロナが)バァーと一気に広がるということはないですね。飲み屋さんの中には(客が)密集してもやってるところがあるようですけど、区役所から「どうにかしてくれ』と言われたことはないです。マスクや手洗いなどの呼びかけが功を奏しているのか、偶然そうなっているのかは分かりませんが。

近藤昇さん(撮影:本間誠也)

横浜スタジアムや中華街にも近い寿町は、約300メートル四方の中に120軒以上の簡易宿泊所がひしめく。部屋数は8000室以上。減少傾向とはいえ、住人は6000人弱を数える。平均年齢は60歳以上で、8割以上が生活保護受給者だ。近藤さんによると、寿町や関内周辺の路上生活者は50人近くに上る。

路上生活の人たちみんなに、今年に入って「コロナワクチンの接種をしないか」って持ち掛けたんですね。最初は6割以上の人が「打ちたい」と言ってたんですが、副反応報道の影響からか、「やはり怖いから打ちたくない」と。でも粘り強く呼びかけてですね、横浜市と協力して8月には3日間連続で、9月10日にも相談会をやったんです。基本的に住民票のない人は取り残されてしまうので、市と協議して、住民票のない人にも接種する方法を考えよう、と。

去年の給付金は住民票による本人確認が厳しく求められたし、今回の接種にしても住民登録している人に接種券が郵送されるから、路上の人には(行政サービスの)手が及ばない。一番困っている人たちに届かないのはダメなんじゃないの、と。ただ、市も言ってるように、給付金とは違ってワクチン接種は住民登録による本人確認は絶対に必要じゃない。緊急対応ですから。だから、市のチラシに「本人確認できない人でもOKです」の文字を目立つように作り直してもらったりもしました。寿の生活保護受給者の中には、住民登録は別の場所という人も結構いるんです。その人たちに接種券は届かない。そういう人も打てるようにしないといけないし、「打てるんだよ」と呼びかけてます。

◆バブル期の活気、寿町は今のような「福祉の街」ではなかった

近藤さんは、社会的な運動とのかかわりを通し、「日雇い労働者のために動きたい」と考え、寿町で活動を始めた。今から35年前、1986年のこと。30代半ばの働き盛りで、世はバブル景気に入ったばかりだった。

いろんな活動に取り組む中で、「最も必要とされるところになぜ労組がないのか、一番しんどい思いしてるのは日雇いだろう」と。日雇いの労働運動に取り組めたらいいなと思っていたんですね。日雇いって、すごく景気の波に翻弄されてしまう。景気の波によって一番最初に打撃を受けて、救済は一番最後ですからね。本当はそういうところにこそ労働運動はあるべきだと思ってました。日雇いには何の保証もない。昇給や退職金ももちろんない。景気が良い時は一生懸命使われるけども、悪くなればポイっと雇用すらされない。仕事がなくなれば放り出されるだけですから。

寿町に来たころ、簡宿の多くは木造とかモルタル造とか。今と違いました。ぼろっちいのが多かった。今は求人がほとんどない寿の日雇い職安にも、当時はいっぱい仕事がありました。求人看板がずらずらずらっと並んで、バーッと全部に明かりがついて。バブル最盛期のころは、人をどうしても集めなくちゃならないからって、仕事する気がなくて(寿労働)センター前広場に寝てる人なんかを起こして、手配師が人数合わせに連れてってましたね。

そのころは文字通り、日雇い労働者の街でした。今のような福祉の街ではなくね。バブル崩壊後は本当に求人がバタッとなくなった。本当にバタッとです。だから何とか仕事にありつこうと、朝の7時ころに職安の1階のシャッターが上がり始めると、みんな、われ先にとシャッターの中に潜り込んでいくんです。白手帳(雇用保険手帳)を片手に持って……。仕事がいっぱいあるときは7つの窓口が一斉に開くんですが、急激になくなったころは、開かない窓口がいくつもあって。その窓口に並んでいた人たちはその時点でダメだったですね。


◆バブル崩壊 「炊き出しを28年もやるなんて思ってもなかった」

バブル崩壊以降、寿の平均年齢は急速に上がっていくわけです。寿だけが寄せ場ではありませんので、山谷に行ったり釜(大阪の釜ヶ崎)に行ったりした人もいたようです。結局、誰も仕事に就けなくなっていく中で、どうにもならなくなった人は路上に行っちゃう。行かざるを得なくなる。バブル崩壊とその後の長期不況、それと、寿の高齢化は同時進行したんですね。

寿町での炊き出しは1993年12月1日に始まった。バブル経済が崩壊して間もなくのころだ。生活保護受給者、路上生活者を問わず、毎週金曜日、週1回の雑炊を楽しみしている人は多い。

バブル経済の崩壊によって、すぐみんなが路上に出るわけではなく、こらえ切れなくなった人が出るわけです。その頃はどこの公園にもどこの河川敷にも、人が寝てる光景があふれてました。こちらも「仕事よこせ闘争」というのをやってましたけど、大不況だから行政にいくら言っても仕事は出てこないんです。そうしてるときに、老人クラブの会長から「黙って見ていられないよ」と炊き出しの話が持ち上がるんです。それはいい考えだ、と。みんなで集まって「寿炊き出しの会」をやることになったわけです。

炊き出しに並ぶ人たち=横浜・寿町(撮影:本間誠也)

もう28年になりますね。炊き出しなんてものは緊急対応ですから、こんなことずっとやるなんて思ってなかった。景気が回復するとかね、仕事があるようになれば、必要なくなるんです。けど、そんな時代はついぞ訪れなかった。炊き出しというのは、大災害などの時の緊急時の外部からの食糧支援なんです。あくまで緊急時のものなんですけど、寿にとっては災害級の不況が慢性化したというか。結局、今日の寝床がない、今日の飯がないっていう人たちがずっと増えていったということなんですよね。「きょうはいっぱい雑炊、余っちゃったね」ということが続くようなことがあれば止めることも可能だったんですけども……今日の寝床、今日の食事がいつまでも解決できない。生活保護の受給基準を大幅に緩和するとか、寝床のない人のための寮みたいなのがあれば大丈夫なんですけども。

横浜市は一時期、寿の路上の人たちに宿泊券とパン券を支給してたんです。それを求める人たちが中区役所をぐるっとり巻いていた。その券があれば簡易宿泊所に1泊できて、700円分くらいの買い物もできた。今晩の寝る場所と飯を確保して何とか頑張って仕事を見つけたい、っていう人の助けになっていたんです。今はなくなっちゃいましたけどね。

◆「なんで怠け者に飯を」と言うけれど

コロナ禍の前と比べて、炊き出しに並ぶ人の数は、大きく変わっていないという。

コロナで急に増えたということはないんです。(毎月1回の)生活保護費が出てから間もない1週目が350食、月の終わりの4週目が700食近く。このパターンはあまり変わってないです。コロナで「見たことのない人がいるな」ということはあります。炊き出しの開始を知らせるため、ハンドマイクを握っていると、「炊き出しの場所はどこですか」と聞かれることもしばしばです。総体の数は変わらないんですけど、新しい人たちがその中で増えている。コロナ以降、寿に新たに住み始めた人も結構います。

炊き出しを始めたころ、そんな活動は当時あまりなかったですから、「なんで怠け者に飯を食わせるんだ」と批判されましたよ。「もっと怠けるじゃないかと」と。昨年の春、コロナが流行し始めたころも、「何でこんなことやってるんだ」「密の状態ができる」と強硬に中止するよう言ってくる人がいましたね。「みんな、飯を食えないからだよ」と説明はします。感染対策にも気を配っている、と。なかなか理解はしてくれません。始めたころも今も、「仕事なんていくらでもある。何でこんなことを」と言ってくる。自分がたまたま仕事を続けていられると、要するに見下しちゃうんですよね。「俺なんか見てみろ。ちゃんと働いているぞ」と。でも。その人だって雇い主の都合でいつ仕事を失うかもしれない。その時に蓄えがなくて次の仕事が見つからなかったらどうするのか。

炊き出しを求めて集まった人たち=寿町(撮影:本間誠也)

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