弱いマスクマンは落日のヒーローのごとく切ない。来日した覆面レスラー史上「最弱」と呼ばれているのが“用心棒コンビ”ことザ・ビジランテス1号、2号である。
実の兄弟である2人はジャイアント馬場、吉村道明のアジアタッグ王座に挑戦(1966年8月27日)するため日本プロレスに初来日。ビジランテスは用心棒、自警団の意味だが、とにかく事前情報がなかった。
決戦前に吉村が「とにかく日本勢は誰も見たことがないのだから全く薄気味悪い」と語るにとどまっている。用心棒コンビは8月25日夜に来日。この時は「俺たちはタイトル泥棒と呼ばれている。今までにインターナショナル、南部、北米、大英帝国、オーストラリアで名の通ったタイトルを全部取った。馬場を殺してでもタイトルを奪う」とやたら威勢がよかった。
ところが来日初戦の前哨戦(26日)でどうも様子は怪しくなる。全身深紅のコスチュームはだぶつき気味で動きは精彩を欠き、防戦一方の2号は馬場にマスクをはぎ取られてしまったのだ。ファンはもちろん馬場と吉村の表情も「?」となった。
そして王座戦当日。疑惑は確信に変わった。ビジランテスは馬場組の足元にも及ばず、1本目は2号がロープに逆さづりになって情けないカウントアウト負け。2本目もわずか4分39秒、馬場がアトミックドロップで2号を仕留め、馬場組が2―0で完勝した。
異例だが、本紙は王座戦翌々日に用心棒組の弱さを追及する「覆面組を裸にする 用心棒は弱虫野郎か」の特集記事を組んでいる。王座戦後に挑戦者組を糾弾する記事など見たことがない。
「ビジランテスは大方の期待を裏切った。会場では『なあーんだ。たいしたことねえな。羽田空港で暴れたのはハッタリか』との声がファンから聞こえた。ある関係者は『どうもハッキリしないチームだ。テクニックはヘタだし買えないね』と言い切った」。ハッキリと「弱すぎる」と書かなかった本紙の奥ゆかしさに涙が出てくる…。
ということで史上最弱のお墨付きをいただいたビジランテスは、その後、名前も姿も変え、別人として2度来日。用心棒コンビはわずか1回で闇に葬られた。来日前のリサーチを欠いた典型的な大失敗例だった。(敬称略)