【仲田幸司コラム】好調だった92年 励みになったのは同級生・田村の存在

守護神として活躍した田村(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(30)】1992年の優勝争いというのは、本当にいい経験でした。惜しくも優勝を逃してはしまいましたが、結果を出すことで周りが見えて実力も発揮できました。

自分は先発陣の中心として投げていた自負がありましたし、あの92年に励みになったのは同級生の田村勤(現在、田村整骨院院長)の存在でした。

左のサイドスローで打者をキリキリ舞いさせたあの守護神・田村です。阪神ファンの皆さんの記憶に残っていると思います。

正直、僕は田村がシーズン通してチームにいてくれたら優勝できたと思っています。前半戦からの快進撃は田村の存在なしでは語れないと、僕もチームも思っているはずです。

僕にとっては本当に気楽に話せる同級生でした。先発と抑えの違いもあり、ライバルというのでもなかった。

田村の集中力の高め方はすごかったと思います。あの鉄仮面のように表情を変えず、ピンチで打者をねじ伏せる投球。厳しい場面での起用ばかりで大変だったと思います。

7月に左ヒジ痛で登録抹消されるまで5勝1敗14セーブ、防御率1・10ですよ。田村は責任感が強いタイプだったので、重圧のかかる阪神の守護神を務めたのはすごいなと思いますね。

同級生としては素顔も見ているわけで、休日前などはよく一緒に飲みに出かけました。

普段は笑顔を見せないことで有名な田村ですが、お酒の席ではデレデレなんです。女性が接客してくれるお店では、鼻の下を長くして目が垂れ下がってね。

マウンド上の顔とのあのギャップですよ。切り替えが素晴らしいというかね。さすが、抑えのエースやなと思います。あの仕事、向いていたんでしょうね。

僕も切り替えが早い方なのですが、監督、投手コーチによく言われた言葉があります。

9回完封、完投などいい投球をした日には、たいてい帰り際に「マイク今日は寝るなよ。寝たら忘れる。次の登板まで寝るな」と言われたものです。

もちろんジョークに決まってますけどね。いや92年、僕は好調を維持し続けていましたからね。もしかしたら僕はずっと寝ていなかったのかもしれませんよ。

それが93年の不調につながったんですかね(笑い)。

結果を出すと周りがよく見えるという話を冒頭にしました。それは当時、野手目線で島野コーチが助言してくれたのですが、けん制時のクセなどもそうです。

当時は広島・高橋慶彦さんや大洋・屋鋪要さん、高木豊さんら走塁技術の高い選手が多かった。そんな時、島野さんが「クセがあるんちゃうか。足上げた瞬間に走られているからもうちょっと考えてみろ」と助言をいただきました。

実際、僕はセットポジションで捕手とのサイン交換の時、踏み出す右足を一歩前に出してサインを確認し、戻す時の歩幅の広さに違いがありました。それに気づき、右足の位置を一度地面につけたら動かさないように修正しました。そうすると目に見えて盗塁が減りました。

だまし合いといえば、一番いやらしかったのは巨人の絶好調男・中畑清さんでしたね。初球、大きなカーブを思い切りタイミングが合っていないように空振りするんです。こっちはまったく合ってないと思いますよね。それを勝負球に使うと思い切りホームランです。いわゆる「三味線」。あれは技というか駆け引き、したたかさですね。

勝ち星を積むとが野球が見えました。勝ちたい、何とか抑えたいばっかりやった以前とは違い余裕ができたのでしょう。でも、93年も同じようにとはいきませんでした。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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