【仲田幸司コラム】僕のFA権に「こんなん紙切れや」傷心のままロッテへ移籍

声をかけてくれたのは広岡GM(右)のロッテだった(左から重光オーナー代行、江尻監督)(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(33)】いろんなところで歯車が狂ってしまったのかもしれません。タラレバは本当にないのですが、1992年のデッドヒートを制して阪神が優勝していたらどうなっていたのか。

投手陣の勝ち頭として優勝に貢献していたなら、功労者としてチームに残っていたのか…。そんなことをいろいろと考えても仕方ありません。95年シーズン終了後、僕は意図せぬ形で阪神タイガースを離れてしまうことになります。

95年の登板はわずか9試合で0勝2敗。チームの戦力として機能することができませんでした。とはいえ、阪神では計12シーズン在籍してチームに尽くしてきた自負がありました。

シーズン中に取得したFA権を行使して、しっかり自分への評価を聞いた上で阪神に残留したい。そういう思いでFA宣言させてもらおうと思っていました。
ただ、球団からは今の成績では評価できない、FA宣言をしても再契約する気もないとのことでした(当時の報道ではFAしても獲得に乗り出す球団はない、宣言残留でも年俸はダウン、トレードにも出さない球団方針が報じられていた)。

自分の意思としては阪神に骨をうずめたいとの話もさせていただきましたが、今度は僕のFAの権利について「こんなん紙切れや」と言われてしまいました。

もう何年も前の話です。誰が悪いとか、恨み言を言いたいわけではありません。それでも、当時はちょっと待ってくれよと、悔しい気持ちになりました。

一応、12年間、阪神に尽くしてきたつもりでした。高校生の僕をドラフトで獲得してくれた大好きなチームです。

話した相手が誰かなどはあえて言いませんが「紙切れ」という言葉を聞いて頭に血がのぼってしまいました。そこまで言うんやったら出ていきますという流れになってしまった。

そうしたところ広岡達朗さん(巨人OB、ヤクルト、西武元監督)から電話をいただきました。当時はロッテのGMをされていて、個人としては91年の阪神・秋季キャンプの臨時コーチとしてお世話になっていた方です。

「何とかしてやるから、もう一度、ウチでやってみるか」。そう声をかけていただいて、ロッテの一員になることが決まりました。

FA宣言への考え方も当時と今ではかなりの違いがあります。今ならまず、長年チームに尽力してくれてありがとうがベースになります。

そこから、せっかく獲得した権利だから、どう行使するかはあなたの自由ですという流れです。でも、当時は違いました。

ただ、何と言ったらいいのでしょうか。僕は阪神を去ると決まった時点で、自分の中の大事な何かが壊れてしまっていました。

今となっては、ロッテ球団にもロッテファンにも申し訳ないんですけど、阪神を出た瞬間にもう野球への情熱というものが湧き出してこなくなった自分がいました。
それよりも当時は、阪神に対してよくもここまでこういう思いにさせてくれたなという思いが強くあった気がします。

本当は野球と向き合うべきなのに良くないですよね。自分の感情が前に出てしまっていました。

こんな気持ちのままでのFA移籍です。新天地で心機一転、頑張ろう。本当にそういう気持ちではありましたが、心にモヤモヤが残っているのも事実です。

それでうまくいくほどプロ野球は甘くなかったです。次回はロッテでの2年間についてお話しさせていただきます。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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