高卒プロ2年目のオフ、奄美大島での自主トレへの同行を志願
誰もが一流になれるわけじゃない。淘汰され、早くにプロの世界を去る選手も少なくない。スポーツに様々な立場から関わる人物の経験を掘り下げる連載「プロフェッショナルの転機」。第6回は、元ソフトバンクの川崎宗則内野手が、“本当のプロ”になった日を振り返る。大先輩と過ごした貴重な時間がなければ、球界屈指の遊撃手は存在しなかった。
「すいません、行かせてください!」
プロ2年目が終わった2001年の秋。ハタチの川崎は、意を決して言った。頭を下げた相手は、小久保裕紀氏(現ソフトバンク2軍監督)。その年に44本塁打を放っていた大打者の自主トレに同行させてもらえないかと頼み込んだ。
危機感が背中を押した行動だった。高校出たてのルーキーイヤーは「ただプロ野球選手になっただけの人だった」。想像を絶する猛者たちの姿に、半ば諦めのような気持ちが湧いてきた。2年目は1試合だけ出場して1軍デビュー。「プロ野球選手としてメシを食っていかないといかん」との思いが芽生えた。
何度もタイミングをうかがいながらお願いした緊張とは裏腹に、大先輩から「ええで」とあっさり快諾を得た。鹿児島・奄美大島での約1か月。「本当によく走った。走ったね。1軍の選手はこんだけトレーニングをしているんだと。高い質で、相当な量を行うって感じ」。体に“1軍基準”を染み込ませた。
体力的な自信はついた。ただそれ以上に、意識が一変する日々でもあった。寝食をともにした小久保氏は、食事の際によくメンタル面の話をしてくれる。成功体験や武勇伝ではなく、自分がいかにどれだけミスしてきたか。「こんな凄い人でも悩んでいるんだと知って、俺の悩みなんて大したことないなと思えた。不器用さを語ってくれて、安心したんだよね」。川崎は鮮明に覚えている。
10歳上の大先輩・小久保氏は「自分を決して大きく見せない」
弱さを直視することが、強さの始まり。「それが小久保キャプテンの懐の深さでもある。真摯に向き合ってくれて、自分を決して大きく見せない。コツコツやってきたからこそ、ホームラン王にもなったし、常勝ホークスを引っ張っていけるんだなと思った」。10歳上の背中が、そのまま目指す理想にもなった。
迎えた3年目。キャンプ中に死球を受けた影響で出遅れたものの、2軍では首位打者を獲得。1軍も36試合経験した。「仕事に対して真摯に向き合い、お金をもらっている意味を考えた」。ただのプロから、真のプロへと昇華した1年だった。4年目の2003年からはレギュラーに定着し、翌2004年には最多安打と盗塁王のタイトルを獲得。絶対的な地位を築き、メジャーリーグにも挑戦した。
不惑を迎え、舞台を独立リーグに移して現役を続ける。衰えに目を背けず、できる限界を追求。「41歳の来年に盗塁20個したいとか言ってるなんて、ハタチの時は思いもしなかったよね」。自らが納得するまで、グラウンドに立ち続けるつもり。あの時、奄美大島で得た気づきは、今もムネリンを支えている。
○川崎宗則(かわさき・むねのり)1981年6月3日生まれ、鹿児島県出身。1999年のドラフト4位で鹿児島工からダイエー(現ソフトバンク)に入団。2004年に最多安打と盗塁王を獲得し、2006年には侍ジャパンの一員として第1回WBCの優勝に貢献した。2012年からMLBに挑戦し、3球団でプレー。国内球界に復帰した後、2019年には台湾プロ野球「味全ドラゴンズ」で兼任コーチを務めた。2020年途中からルートインBCリーグ・栃木ゴールデンブレーブスに所属する。
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