「村上春樹を読む」 (51) 動物・植物・食べ物 『ラオスにいったい何があるというんですか?』

 村上春樹の久しぶりの紀行文集『ラオスにいったい何があるというんですか?』(文芸春秋、2015年)が刊行されました。

紀行文集『ラオスにいったい何があるというんですか?』(文芸春秋)

 同書のあとがきにもありますが、1980年代から2000年代にかけて村上春樹はたくさんの紀行文・あるいは海外滞在記を書いてきました。挙げてみれば、1986年秋から3年間のギリシャ・イタリアへの旅行記である『遠い太鼓』(1990年)から始まって、『雨天炎天』(1990年)、『やがて哀しき外国語』(1994年)、『うずまき猫のみつけかた』(1996年)、『辺境・近境』(1998年)、『シドニー』(2001年)など、かなり立て続けに紀行文集や海外滞在記を書いていました。

 でもある時点から「仕事は抜きにし、頭を空っぽにして、とにかく心安らかに旅行を楽しもうじゃないか」という気持になって、紀行文集から離れていったそうです。

 それでも、頼まれて旅行記を書く仕事をやっているうちに、次第に原稿も溜まってきて、ようやく1冊の分量になったようです。この本におさめられた紀行文のうち、一番古いのは「チャールズ河畔の小径」で、これは雑誌「太陽」(1995年11月号・臨時増刊)に発表されたもの。最も新しいのは「漱石からくまモンまで」で、これは雑誌「クレア(CREA)」の2015年9月号に掲載されたものです。つまり、ここ20年間の紀行文を集めたもので、その1番の中心になっているのは、日本航空の機内誌「アゴラ(AGORA)」に書かれたものです。

 「アゴラ」は写真中心の雑誌なので、要求される原稿枚数がとても少ないので、「これじゃ、いくらなんでも短すぎるよな」と思って、いつもだいたい長いヴァージョンと短いヴァージョンの2種類を書くことにしていたそうです。つまり雑誌には短いヴァージョンを載せ、本にするときのために長いヴァージョンをとっておいたのです。今回、収録されているのは、長いヴァージョンということなのでしょう。このあたり、いかにも用意周到な村上春樹らしい、紀行文集の作りかたですね。

 久しぶりの紀行文集『ラオスにいったい何があるというんですか?』を読んで、一番、頻度多く、私に響いてきたのは「のんびり」という言葉です。

 例えば、最初の「チャールズ河畔の小径」にも「人々はそこにやってきて、それぞれの流儀で、河をめぐる自分たちの生活を送る。ただのんびり散策したり、犬を散歩させたり、サイクリングしたり、ジョギングしたり」していて、「人々はまるで何かに引きつけられるように、このゆったりと流れる河のほとりに集まって」きます。

 そのチャールズ河畔の小径を走る村上春樹も「河の流れを眺めながら、いつもの遊歩道をのんびりと、身体を慰撫するように走る」と書いているのです。

 そして最後の「漱石からくまモンまで」では世界遺産に登録される直前の熊本県北部の炭鉱施設「万田坑」を見学に行って、この「万田坑」世界遺産への登録騒ぎについて「すやすや気持ちよく眠っていたのに、急に揺すり起こされた人みたいで、なんとなく気の毒な気さえした。実際に世界遺産になったら、激しく揺すり起こされるのだろう。僕ならこのままのんびり寝ていたいなと思うだろうけど、炭鉱の考えることまではわからない」などと書いています。

 さらに日奈久(ひなぐ)温泉の「金波楼」という国の登録文化財になっている、この古い旅館も「床が少し傾いていて、男性用露天風呂が廊下からほとんど丸見えになっているけど、そういう些細なことを気にしなければ、昔風というか、古式豊かというか、わりにのんびりできる温泉旅館」だそうですし、ゆるキャラのトップスター「くまモン」を推進している「熊本県商工観光労働部・観光経済交流局・くまもとブランド推進課」に出向いて、その職場を見たが、「実際には見るからにのんびりした部署だった」そうです。

 このように『ラオスにいったい何があるというんですか?』は「のんびり」「のんびり」していて、旅、紀行の文集ゆえに「のんびり」を楽しむ本なのです。

      ☆

 その「のんびり」した『ラオスにいったい何があるというんですか?』で、圧倒的に村上春樹らしい文章だなと思ったのは、動物と植物へのこだわりです。

 「水面は日々微妙に変化し、色や波のかたちや流れの速さを変えていく。そして季節はそれをとりまく植物や動物たちの相を、一段階ずつ確実に変貌させていく」

 冒頭の「チャールズ河畔の小径」のチャールズ河畔のなにげない描写へも「植物や動物たち」のことが出てきます。そして、具体的にたくさんの動物のことや植物のことが記されているのです。その例を挙げてみましょう。

 日本ではほとんど参加しない「世界作家会議」みたいなものに出席するためにアイスランドを訪問した「緑の苔と温泉のあるところ」では、文のタイトルからして「緑の苔」という言葉が記されているのですが、アイスランドの動物も他国からの動物の持ち込みを厳しく規制しているため、昔のかたちの動物がたくさん残っているようです。

 アイスランドの羊には尻尾がないことが書かれていますし、村上春樹が読んだ本によると、アイスランドでは、羊は家族同様に大事にされているらしく、農夫は自分が飼っている羊たちに一匹一匹名前をつけて、「羊台帳」みたいなものに、たとえば「三四郎(右耳黒、背中に雲形斑点)、圭子(下半身黒、左目に隈取り)…」 みたいな記載をして、飼っているそうです。動物好きな国なんですね。

 小柄でたてがみがとても長いアイスランドの馬のことも紹介されていて、それは初期植民時代に持ち込まれたまま外の血統が混じっていないので、古代のスカンジナビアの馬の面影をそのまま残しているのだそうです。この小柄で、たてがみがとても長いアイスランドの馬は「なんだか昔のグループサウンズの歌手みたいで、前髪をはらっとかきあげながらこっちにやってくるところなんか、色っぽくさえある」とか。

 北極海に分布する派手な外見の鳥・パフィンのことも詳しく書いてあります。パフィンは「くちばしがまるで南国の花みたいにやたらカラフルで、足がオレンジ色で、ぜんぜん北方ぽくない。目つきはどことなく阪神(→楽天)の星野監督に似ている」そうです。

 星野監督と似ているかどうかに興味のある人は、インターネットで検索でもして、その姿を見て、確かめてください。アイスランドでは、親鳥からはぐれた子パフィンに餌をあげて、街の人たちが熱心に救出する話なども詳しく描かれています。

 植物に関しては、アイスランドは、溶岩でできた荒野で、それが深い緑色の苔に覆われているのですが、でも「森はまったくといっていいくらい存在しない。アイスランドが貧しかった時代に、人々が暖房用の薪にするために、そこにあった森林を伐採し尽くしたのだ。アイスランドにもともと生えていた樹木の99パーセントまでが人の手によって伐採されたという」。

 当時のアイスランド人の生活は生き延びるのがやっとで、植林する余裕もなかったようです。でも、これじゃいけないということで、各地で植林が始められているけれど、南国とは違って樹木の生長は遅いから、今のところ、せいぜい人の背丈ほどの樹木しかないそうです。そのかわりというか、どこのレストランに入ってもテーブルに小さな花が飾ってあるそうです。よく見ると、それがすべて造花なんです。イミテーションですから、なーんだと思ってもいいのですが、「これも慣れるとなかなか悪くないもので、植物の貴重な国で、 精一杯自然の美しさを楽しもうとしている人々の気持ちが、じわじわと伝わってくる」と村上春樹は記しています。

      ☆

 動物と植物に対する視線は、村上春樹文学の最大の特徴でもありますが、それは、この『ラオスにいったい何があるというんですか?』の中を貫いています。

 この本の表題となった言葉は「大いなるメコン川の畔で」の冒頭で、日本からラオスのルアンプラバンの街に行く直行便はないので、ハノイを中継地点にして、ハノイで村上春樹が一泊した際、ヴェトナムの人に「どうしてまたラオスなんかに行くんですか?」と不審そうな顔で質問され、言外には「ヴェトナムにない、いったい何がラオスにあるというんですか?」というニュアンスが読み取れたからです。

 訪れたラオスのルアンプラバンはメコン川沿いにある、人口2万余りの街。一般的に「仏都」と呼ばれているところで、数え切れないほどたくさんの大小の寺院がひしめいているところ。

 ラオスの人々は何かがあると寺院に彫像を奉納するようです。お金持ちは大きな立派な像を奉納するし、そうじゃない人たちは小さな素朴な像を奉納するのです。

 「寺院の薄暗い伽藍に無数に並んだ古びた仏像や、羅漢像や、高名な僧侶の像や、その他わけのわからない様々なフィギュアの中から、自分が個人的に気に入ったものを見つけ出すのは、ずいぶん興味深い作業だった。ざっと見て通り過ぎれば、ただ『いっぱい仏像があるもんだな』で終わってしまうところだが、暇にまかせて、目をこらしてひとつひとつこまめに眺めていくと、個々の彫像にはそれぞれの表情があり、たたずまいがあることがわかる。

 時折、まるで自分のためにこしらえられたような、心惹かれる像に巡り会うことがある。なぜか懐かしさに似たものを感じることさえある。そういう像に巡り会うと、『おお、こんなところにおまえはいたのか』とつい声をかけたくなってしまう」

 と村上春樹は書いています。そんな村上春樹がことのほか気に入って、何度もその小さなお寺に足を運んで、いろんな角度から、そのかたちを眺めたという像があります。

 それは、その街の横町にあるとても小さなお寺にあるお猿の像です。そのお寺に、高僧にバナナみたいなものを恭しく差し出している小さなお猿の像があったのです。

 お猿が差し出しているものはバナナじゃなかったかもしれないと村上春樹は書いていますが、まあ、とにかく何かジャングルでとれる食べものをお猿が差し出しているのです。

 なかなか愛嬌のある可愛い猿だったので、村上春樹は地元の人に「これはどういう話なんですか?」と尋ねてみたそうです。

 その人の話によれば、この高僧は密林の中で厳しい断食の修行をして、その甲斐あって、あともう少しで悟りを開いて、聖人の域に達するところでした。でも猿がこの姿を見て、「こんなお偉いお坊様がおなかをすかせて気の毒に」といたく同情し、バナナ(か何か)を持って行って、「お坊様、これを召し上がってください」と差し出した、ということでした。

 「もちろん高僧は礼を言って、その申し出を丁重に断った。断食が何を意味するかなんて、猿には理解できないのだ(僕にももうひとつよく理解できないけど)。しかしけなげな猿ですね。それでそのお坊さんはちゃんと聖人になれたのか?そこまで聞かなかったので、僕にはわかりません」

 と村上春樹は書いています。

 「猿」は村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』にも出てくる動物です。「猿の檻のある公園」というものが『風の歌を聴け』に出てきて、「僕」は友人の「鼠」が運転する黒塗りのフィアット600に乗っているのですが、2人は泥酔していて、その公園の垣根を時速80キロのスピードの自動車で突き破り、突然眠りから叩き起こされた猿たちはひどく腹を立てたりします。

 「まるで自分のためにこしらえられたような、心惹かれる像に巡り会うことがある。なぜか懐かしさに似たものを感じることさえある。そういう像に巡り会うと、『おお、こんなところにおまえはいたのか』とつい声をかけたくなってしまう」と村上春樹が書いている像が、そのお猿の像のことだとすれば、当然、デビュー作で書いた猿たちのことも頭の中をよぎっていたでしょう。

 そのお寺で、村上春樹がいろんな角度から猿の姿かたちを眺めていると、いつも、2、3匹の大きな犬たちがあてもなくごろごろと昼寝をしていたそうです。犬にもたっぷり時間があるようで、ここにも「のんびり」があります。

 「僕の会ったこの街の人々は誰しもにこやかで、物腰も穏やかで、声も小さく、信仰深く、托鉢する僧に進んで食物を寄進する。動物を大事にし、街中ではたくさんの犬や猫たちがのんびりと自由に寛いでいる」「街角には美しいブーゲンビリアの花が、ピンク色の豊かな滝のように咲きこぼれている」「しかし一歩街の外に出れば、そこには泥のように濁った水が雄々しく流れるメコン川があり、夜の闇の中に響くラディカルな土着の音楽がある。黒い猿たちが密林を渉猟し、川の中には僕らが見たこともない不思議な魚が(おそらく)うようよと潜んでいる」

 そのように記してありますので、村上春樹が、動物と植物と自然に、限りない愛着を抱いていることはよくわかります。そういえば、本の最後に出てくる、「くまモン」も“動物”ですね。

      ☆

 でも今回、この『ラオスにいったい何があるというんですか?』の表題エッセーとも言える「大いなるメコン川の畔で」の断食をする高僧へバナナ(か何か)を差し出す猿の像についての文章に接して、この紀行文集が別の形で、自分の中に迫ってきました。

 それは「食べる」という行為についてです。

 人は動物と植物をどれだけ愛しても、それらを食べて生きているわけです。そのことに対する村上春樹の思いのようなものが迫ってきたのです。

 アイスランドでは、家族同様に羊を大事にして、飼っている羊たちに一匹一匹名前をつけて、「羊台帳」みたいなものをつけている農夫がいるという本を村上春樹が読んだところも、よく見てみると、「アイスランドでは羊は家族同様に大事にされているらしい。もちろん最後には食べられてしまうんだけど、生きているあいだは、ということです」と記してあります。村上春樹は羊肉を食べないのですが、「うちの奥さんは羊肉が好きでよく食べるのだけど、アイスランドの羊は『ちょっとクセがある』ということだった」とか。

 さらに親鳥からはぐれた子パフィンに餌をあげて、街の人たちが熱心に救出する話なども紹介しましたが、同時にパフィンは長いあいだ島民たちにとって、貴重な食料源としての役割も果たしてきたことが書いてあって、地元の人々はパフィンを丸焼きのかたちで食べるみたいです。でも観光客向けのレストランでは、丸ごとそのままではやはり刺激が強いのだろう、かたちがわからないように料理するようです。

 「僕は鳥を食べないので、かわりにうちの奥さんが『本日のパフィン・ディッシュ』を食べた。チキンなんかに比べると、けっこう味に野趣というか、クセがあるということだ。味の感じは雀なんかに似ているかもしれない。だから料理には濃厚なソースが使われている。『とくにもう一回食べたいとは思わないけどな』とうちの奥さんは言っておりました」

 そんなふうに書かれています。この本には、ヴェトナム料理とタイ料理のちょうど中間あたりで、日本人の口にけっこうあうのではないかというラオス料理の話も出てくるし、「おいしいものが食べたい」という章では、アメリカの東西の海岸にある同名の都市、西のオレゴン州ポートランドと東のメーン州ポートランドを訪ねて、タイトル通り、おいしいものを食べ歩く話が書かれています。

 村上春樹の動物、植物への思いとともに、それらを「食べて」生きている人間というものを考えながら読むと、ふと私の心に中に納まるものがありました。

      ☆

 そんな思いで、再読した部分があるので、そのことを最後に紹介して終わりたいと思います。

 最初の「チャールズ河畔の小径」でチャールズ河畔に「人々はまるで何かに引きつけられるように、このゆったりと流れる河のほとりに集まってくる」ことを紹介しましたが、それに続いて村上春樹はこんなことを書いています。ちょっと長いですが、そこを引用してみます。

 「僕は思うのだけれど、たくさんの水を日常的に目にするというのは、人間にとってあるいは大事な意味を持つ行為なのではないだろうか。まあ『人間にとって』というのはいささかオーヴァーかもしれないが、でも少なくとも僕にとってはかなり大事なことであるような気がする。僕はしばらくのあいだ水を見ないでいると、自分が何かをちょっとずつ失い続けているような気持ちになってくる。それは音楽の大好きな人が、何かの事情で長いあいだ音楽から遠ざけられているときに感じる気持ちと、多少似ているかもしれない。あるいはそれには、僕が海岸のすぐ近くで生まれて育ったということもいくらか関係しているのかもしれない」

 デビュー作『風の歌を聴け』で「鼠」が運転するフィアット600が「猿の檻のある公園」の垣根を突き破って、猿たちがひどく腹を立てた後、「僕」と「鼠」は自動販売機で缶ビールを半ダースばかり買って、海まで歩いていきます。砂浜に寝ころんでビールを全部飲んで、そして海を眺めます。素晴らしい良い天気で、「俺のことは鼠って呼んでくれ」と「鼠」が「僕」に言います。そういう意味で、「鼠」と「僕」の出会いの場面ですね。

 「鼠」と「僕」はビールの空缶を全部海に向って放り投げてしまうと、堤防にもたれ頭からダッフル・コートをかぶって1時間ばかり眠ります。すると「目覚めた時、一種異様なばかりの生命力が僕の体中にみなぎっていた。不思議な気分だった」と村上春樹は書いています。「100キロだって走れる」と「僕」が「鼠」に言うと、「俺もさ」と鼠は言うのです。そんな生命力をみなぎらせるエネルギー、再生の力が、村上春樹の「海」にはあります。

 チャールズ河畔で、村上春樹が思う「たくさんの水」にも、同じような生命力をみなぎらせるエネルギー、再生の力があるのではないでしようか。

 たくさんの水は、自然再生へのエネルギーです。

 『ノルウェイの森』は当初は「雨の中の庭」というタイトルで書き始められたそうですし、『海辺のカフカ』(2002年)の最後に「僕」は新幹線で帰るのですが、名古屋を過ぎたあたりから雨が降り始めます。「僕」は車窓の雨粒を見ているうちに、目を閉じて身体の力を抜き、こわばった筋肉を緩めると、「ほとんどなんの予告もなく、涙が一筋流れる」のです。この雨と涙も「たくさんの水」でしょう。

 『1Q84』では、雷鳴の中での「天吾」と「ふかえり」との交わりの場面、さらに「青豆」が「リーダー」と対決して「リーダー」を殺害する場面で、洪水のような「水」が出てきて、「青豆」が「天吾」との子を身ごもるという展開となっていました。ここにも「たくさんの水」と「青豆」と「天吾」の「再生」のイメージがあります。

 そしてたくさんの水、川、海は「魚」に象徴される食料の源です。村上春樹の変わらぬ物語の源泉からの水が、この紀行文集の中も流れているように感じました。

      ☆

 最後にこれは宣伝ですが、『大変を生きる―日本の災害と文学』(作品社)という本を書きました。古代・中世から現代までの、日本の地震、津波、洪水、台風、地すべりなどの天災(大変)に対して、日本人がどのように向き合い、それをどのように受け止めて、どう生きてきたのか。「日本人と災害」を文学作品から読み解いた初めての試みです。村上春樹の作品と地震や台風などとの関係を考えた章もあります。興味があったら読んでください。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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