「村上春樹を読む」(9)『雨月物語』と古代神話、そして近代日本 「旭川」と「高松」・その2

崇徳天皇・白峯陵=香川県

 村上春樹は中華料理というものが苦手のようです。『村上朝日堂』(1984年)に「食物の好き嫌いについて(1)」というエッセーがあって、その中で「中華料理となると一切食べられない」と書いています。

 日本のラーメンが正確な意味で中華料理かというと、少し考えてしまいますが、難しいことはさておいて、中華料理嫌いの村上春樹は、ラーメンはさらに苦手のようです。千駄ケ谷に住んでいた時分、「家の近くのキラー通りに美味いという評判のラーメン屋が二軒並んであって、その前を通ると嫌いなラーメンの匂いがぷんぷんするので、僕は家に帰るのにいつも大変苦労した」と、同じエッセーの中に記してあるのです。これは遠回りして帰ったのか、はたまた呼吸を止めてラーメン屋の前を通過したということでしょうか…。

 こんなことから書き出したのは、私が今年、訪れた旭川はラーメン屋が街のいたる所にあったからです。『ノルウェイの森』(1987年)の中で主人公の「僕」はレイコさんに対して、旭川について「一度行ったことあるけれど、悪くない町ですよ。ちょっと面白い雰囲気があってね」と言っているのですが、このラーメン屋の群雄割拠を見たらどのように感じるのかなと思いました。いやいや、村上春樹が旭川を訪れたのは『羊をめぐる冒険』(1982年)を書くための取材旅行だったと思われるので、もう30年前のことですが。

 村上春樹は、ラーメンは嫌いですが、でも麺類が嫌いというわけでは決してありません。うどんは大好きのようです。

 紀行エッセー集『辺境・近境』(1998年)のなかに「讃岐・超ディープうどん紀行」という章があって、その中に、自分は「もともとうどん好き」と書いています。

 このエッセーは、村上春樹がおいしい讃岐うどん屋を3日間にわたり、食べ歩く話ですが、今回は村上春樹の麺類の好き嫌いを紹介したいわけではありません。

 今回のテーマは讃岐のことです。讃岐といえば、香川県です。このエッセーには香川県の県庁所在地・高松にあるうどん屋も出てきますが、村上作品に繰り返し出てくる、この香川県とは何か、高松とは何か、四国とは何かということを今回は考えてみたいのです。

 「讃岐・超ディープうどん紀行」の冒頭にも「あるいは、香川県という土地には他にもいろいろと驚くべきことがあるのかもしれない。しかし僕が香川県に行ってみて何より驚いたのは、うどん屋さんの数が圧倒的に多いことであった」とあります。この書き出しにある「あるいは、香川県という土地には他にもいろいろと驚くべきことがあるのかもしれない」とは何かということについて考えることで、村上作品の中での北海道、旭川の持つ意味についてもさらに考えてみたいのです。

 その香川県高松が出てくる村上春樹の作品で一番有名なものは『海辺のカフカ』(2002年)でしょう。この長編は自分の父親を殺したと思われる、主人公の「僕」が15歳の誕生日に家を出て、夜行バスに乗り、知り合いもいない四国の高松に向かう話です。

 『海辺のカフカ』は、その15歳の少年「僕」の話と、知能障害のあるナカタさんとそれにお供するトラック運転手の星野青年の話が交互に展開していく物語で、両者が四国、香川県の高松にある甲村記念図書館という私立図書館に結集するという長編小説です。

 ちなみに「僕」はバスで高松に到着すると、高松駅近くのうどん屋に入って、うどんを食べます。「それは僕がこれまでに食べたどんなうどんともちがっている。腰が強く、新鮮で、だしも香ばしい。値段もびっくりするくらい安い。あまりうまかったのでおかわりをする」と書いてあります。

 一方、ナカタさん・星野青年のコンビのほうは、神戸からバスで四国に渡ります。徳島駅前でバスを降りて一泊。そして今度はJRで高松に2人は向かうのですが、高松駅で降りると、この2人も駅前にあるうどん屋に入ってうどんを食べます。その店はもしかしたら「僕」が入ったのと同じうどん屋かもしれませんが、そこでナカタさんも「とてもおいしいうどんであります」と言っています。

 その高松は『ねじまき鳥クロニクル』(1994年、95年)にも出てきます。この長編は前回にも紹介しましたが、すごく簡単に言うと、主人公「僕」が突然行方不明になった妻クミコを捜し続けて取り戻す物語です。

 そして失踪中の妻クミコから、「僕」のところに手紙がくる場面が同作にあります。妻からの手紙の消印はかすれていて、はっきりとは読みとれないのですが、「『高松』と読めなくもなかった」と書かれているのです。 さて、なぜこのように村上春樹の作品には四国や高松がしばしば登場するのでしょうか。またそれについての説明が長くなりそうですから、私の考えを最初に書いてしまいましょう。その理由は四国、香川県、高松が、村上作品の中では「死者の世界」「霊魂の世界」と繋がっているからなのだと思います。

 紹介した『海辺のカフカ』には、村上春樹が大好きな上田秋成の『雨月物語』が何回か登場します。例えば、星野青年の前にケンタッキーフライドチキンの人形、カーネル・サンダーズが現れて、「我今仮に化(かたち)をあらはして語るといへども、神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮(こころ)あり」などと言う場面があります。

 その意味は「今私は仮に人間のかたちをしてここに現れているが、神でもない仏でもない。もともと感情のないものであるから、人間とは違う心の動きを持っている」ということですが、これは『雨月物語』の『貧福論』に登場するお化けが話す言葉の引用です。

 また「僕」のほうの話では『雨月物語』の『菊花の約(ちぎり)』という話について、甲村記念図書館を手伝っている大島さんから、「僕」が教えてもらう場面があります。

 つまり登場人物たちは高松と図書館、うどんと『雨月物語』で繋がっているのです。

 その『雨月物語』はほとんどがお化け、霊魂、死者の物語です。そして『雨月物語』の冒頭の『白峯(しらみね)』という話は、西行が讃岐(香川県)に向かう話なのです。

 保元の乱で敗れて都を追われ、讃岐に流されて、その地で亡くなった崇徳院の墓を西行は参り、崇徳院の亡霊と語らいます。

 私も、この崇徳院の墓を訪ねたことがありますが、それは香川県坂出駅からかなり遠い山の中にあります。こんな遠くまで、崇徳院の遺体を運んだのかと驚くほどの地でした。

 崇徳院のことは、鴨長明『方丈記』などにも出てきますが、崇徳院の死後、都では天災・人災が相次ぎ、院の怨霊の仕業ではないかと長く恐れられたそうです。その怨霊の地が「讃岐」、今の「香川県」であり、その香川県の県庁所在地が「高松」なのです。

 つまり『雨月物語』は四国、香川県と強く繋がった作品なのですが、これが『海辺のカフカ』の登場人物たちが、高松に向かった理由だと、私は考えています。

 「死者の世界」「霊魂の世界」(忘れられない記憶・忘れてはならない記憶)と交わって、主人公が成長して行くというのが、村上春樹の物語の原型をなしていますし、『海辺のカフカ』も、この典型のような物語です。

 その『海辺のカフカ』に繰り返し登場してくる『雨月物語』も「死者」「霊魂」の世界であり、冒頭の『白峯』では西行が讃岐に向かうのです。だから『海辺のカフカ』の人たちは香川県高松に向かうのでしょう。

 四国は四国遍路、四国八十八カ所の霊場巡りで有名です。その霊場を巡るお遍路さんの姿は死出の旅姿です。

 前回、村上春樹には「四」という数字へのこだわりがあることを紹介しましたが、「四国」は村上春樹にとって「死国」です。事実、高知県出身の作家・坂東眞砂子さんの小説で、映画化もされた『死国』という四国霊場巡りの作品もあるぐらいです。

 つまり「四国」は「死者の世界」「霊魂の世界」であり、その世界への「入り口」が香川県であり、高松なのです。香川県高松をそのように断定するには少し例証が足りないのではないかと思う人もいるかもしれません。

 ですからもう1つ、香川県高松と「死者の世界」「霊魂の世界」の繋がりについて、村上作品の例を挙げてみましょう。

 『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」の家の近くの路地に面して空き家があります。その家の元の持ち主は「宮脇さん」という名前でした。ファミリー・レストランを経営していたのですが、ある日、夜逃げのようにしていなくなってしまったのです。

 その空き家には深い井戸があって、僕は縄梯子を使って井戸の底に降りていくと、その底は土で、空井戸になっているのです。

 僕はこの井戸を通過して壁抜けのように別の世界に出て、その異界の世界で闘い、最後に妻のクミコを取り戻すという物語になっています。ですから宮脇さんの家だった「空き家」と「井戸」は非常に重要な設定なのです。

 そして第3部の冒頭部分で、その宮脇さん一家が、高松市内の旅館で一家心中した事実が明かされるのです。次女は絞殺され、宮脇さん夫妻は首を吊って自殺、長女は行方不明とのことです。ここでも「高松」は「死者の世界」「霊魂の世界」と繋がっているのです。

 さらにもしかすると「高松」は宮脇さんの故郷か、そのルーツと繋がる地だったのかもしれません。全国展開している「宮脇書店」という本屋さんがありますが、その本社は「高松」にありますし、「高松」に勤務した先輩の話によりますと、「高松には宮脇という名前が非常に多い」とのことでした。

 以上で、四国や香川県や高松が村上春樹の作品世界では「死者の世界」「霊魂の世界」と繋がる地であることを、かなり納得していただけたのではないかと思います。

 次ぎに失踪した妻クミコの手紙は、なぜ「高松」と読めるような消印で来るのか。そのことを考えてみたいと思います。

 これは、おそらく『古事記』のイザナギイザナミの神話と繋がっているのではないかと思います。イザナギは死んだ妻のイザナミを生の世界に連れ戻そうと「死者の世界」である、地下の「黄泉の国」を訪れます。

 この「高松」から来る妻クミコの手紙とは「死者の世界」である「黄泉の国」から来た手紙のことでしょう。『古事記』では妻を取り戻そうとするイザナギに対して、妻のイザナミは「黄泉の国」の神と相談すると言います。でもその時、イザナミは「私の姿を見ないように」とイザナギに約束させるのです。

 でもイザナギは妻との約束を破って、イザナミの姿を見てしまいます。すると、その姿はウジ虫だらけでした。驚いて逃げるイザナギを、約束をやぶったことをゆるせないイザナミが追いかけてきます。

 一方『ねじまき鳥クロニクル』では元・宮脇さん家の井戸に降り、そこから異界に入って闘っている「僕」が「君を連れて帰る」と妻クミコに言う場面があります。さらに暗闇の中にいるクミコから、懐中電灯で「私の顔を照らさないってちゃんと言ってくれる?」と約束させられる場面まであります。そして「君の顔を照らさない。約束する」と「僕」は断言するのです。これらはみなイザナギイザナミ神話と対応した場面でしょう。

 そして『海辺のカフカ』には「高松」の神社で拾った「入り口の石」というものが出てきます。カーネル・サンダーズと『雨月物語』のことを話した星野青年が、カーネルに導かれて、「高松」の神社に行くと、樫の木の下に小さな祠があります。その中をカーネルが懐中電灯で照らすと、古びた丸い石があって、それを星野青年が拾うのです。

 それが「入り口の石」です。この石が非常に不思議な石で、動かそうとすると、たいへんな重さの石となっているのです。でも怪力の星野青年が渾身の力で「入り口の石」をひっくり返すと「入り口」が開くのです。

 何の「入り口」なのか、もう余分な説明は必要ないかもしれませんが、この世の「生の世界」から、あの世の「死者の世界」「霊魂の世界」への「入り口」です。その「入り口の石」が「高松」にあるのです。

 そして「入り口の石」が開けられると、「僕」のほうが森の中に入って行って、そこで、佐伯さんという甲村記念図書館の責任者の女性と出会います。その時には現実の佐伯さんはもう既に死んでいるのですが、この森の中での佐伯さんは15歳の少女です。

 つまり「入り口の石」の蓋を開けて、入っていった世界は、時間も空間もねじ曲がった「死者の世界」「霊魂の世界」なのです。

 そして、今度は「僕」がその「死者の世界」「霊魂の世界」から戻ってくるのですが、僕が「生の世界」に戻る時に、ナカタさんも死んでしまいます。

 そのナカタさんの死体の口から、ぬめぬめと、白く光る物体が出てくる場面がありますが、これがなかなかリアルで気持ち悪いですね。こんなことを書ける村上春樹の文章力にはすごいものがあると思います。

 ぬめぬめとした、白く光る物体を星野青年は刺身包丁で何度も刺しますが、何の手応えもなく、ずるずるとナカタさんの口から、外に出続けています。ところが星野青年がまた全力を尽くして、重たい「入り口の石」をひっくり返すと、その物体を意外と簡単に片づけることができたのです。

 『古事記』では「千引の岩」というものが出てきますが、これが「入り口の石」に対応しているのでしょう。ウジ虫だらけのイザナミの姿に驚いて逃げるイザナギを、怒った妻のイザナミの追っ手が追いかけてきます。

 イザナギは黄泉比良坂という坂の途中に千人がかりでも動かないような大岩を置いて、ようやく追っ手を振りきるのです。それが「千引の岩」です。その大岩が「生の世界」と「死者の世界」「霊魂の世界」との境界線です。

 「僕」は冥界である森の中で、少女の佐伯さんと会った後、2人の兵隊に守られて「入り口」(帰りは出口ですが)までやってきます。すると兵隊が「ここをいったん離れたら、目的地に着くまで、君は二度とうしろを振りかえっちゃいけないよ」などと言います。そして僕は「わかりました」と約束をします。

 つまり『海辺のカフカ』のこの場面もまた『古事記』のイザナギイザナミ神話の反映でしょう。でもギリシャ神話のオルフェウスの神話も、この神話と非常によく似た話ですので、村上春樹が東西の神話をよく意識して書いている場面だとも言えます。

 ともかく、そんな「死者の世界」「霊魂の世界」への「入り口」が「四国」であり、「香川県」であり、「高松」なのです。

 さて『海辺のカフカ』の「僕」は「死者の世界」「霊魂の世界」で、15歳の佐伯さんと出会います。その佐伯さんは「僕」にこう言います。「あなたに私のことを覚えていてほしいの」と言うのです。

 これって、前回紹介した『ノルウェイの森』の自殺してしまう直子やレイコさんの言葉とそっくりですね。同作の冒頭、直子は繰り返し「私のことを覚えていてほしいの」と言います。また最後のほうではレイコさんもまた「僕」に「私のこと忘れないでね」と、全く同じ意味のことを言うのです。

 同じことを言う佐伯さんは『海辺のカフカ』の中でもはっきり書かれていますが、既に死者です。この関係を見ても「レイコさん」が死んだ直子のお化けであり、その直子の「レイコン」(霊魂)であることが分かっていただけるのではないかと思います。

 『ノルウェイの森』の最後、直子の霊魂である「レイコさん」が「辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまで来たのよ」と言います。

 『海辺のカフカ』の最後には、既に死者である佐伯さんが「もとの場所に戻って、そして生きつづけなさい」と「僕」に言います。すると「入り口」を通って「生の世界」に出てきた「僕」に、甲村記念図書館の大島さんが「君は成長したみたいだ」と言うのです。

 日本人には「霊魂の世界」「死者の世界」が身近に存在していますが、その我々の日常の生の近くにある「霊魂の世界」「死者の世界」(忘れられない記憶・忘れてはならない記憶)と交わり、主人公が成長していくというのが、村上作品の特徴で、いずれもそのことがよくあらわれている場面だと思います。

 さてさて、前回と今回のテーマの出発点である、「旭川」の話に戻りましょう。

 私は「旭川」も「高松」も村上作品の中で「死者の世界」「霊魂の世界」と繋がる場所、「死者の世界」「霊魂の世界」への「入り口」の場所であると思っています。

 ではなぜ「旭川」と「四国」「香川県」「高松」が「死者の世界」「霊魂の世界」に繋がる場所なのでしょう。

 『海辺のカフカ』の冒頭、「僕」が四国に向かう時の文章には、こんなことが書かれています。「四国はなぜか僕が向かうべき土地であるように思える」。その理由は「東京よりずっと南にあり、本土から海によって隔てられ、気候も温暖だ」とあるのです。この中で最も重要な言葉は「本土から海によって隔てられ」ているということでしょう。

 また星野青年がナカタさんに「入り口の石」を探すために、どうして四国に来なくてはいけなかったのかを問う場面では、ナカタさんが「大きな橋を渡ってくることが必要だったのです」と答えています。

 ですから「北海道」の「旭川」も「四国」「香川県」の「高松」も、本土から隔てられている、つまり一般的な「日本」とは異なる地だということを村上春樹は述べようとしているのではないでしょうか。

 なにしろ讃岐は崇徳院の配流の地です。島流しの地なのです。最初のほうで紹介したエッセー集『辺境・近境』のなかに、なぜ「讃岐・超ディープうどん紀行」という文章が入っているのか、という問題も讃岐(香川県)が崇徳院の配流の地であることを考えれば、よく分かります。「配流の地」ならば「辺境」ですし、「死者の世界」への「入り口の地」であり、「霊魂の世界」が近い土地ならば、それは同時に「近境」でもあるのです。

 最後に、前回、最初に紹介した問題、つまりレイコさんが「旭川」について「あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」と言うことについて考えてみなくてはなりません。なぜ旭川が「作りそこねた落とし穴みたいなところ」なのかを。

 「四国」や「高松」は古代神話まで繋がるような「落とし穴」「入り口」です。でも「旭川」は古代神話にまで繋がるような「落とし穴」「入り口」として、村上作品の中で記されているわけではありません。

 むしろ近代日本の戦争の「死者の世界」「霊魂の世界」に繋がる「落とし穴」「入り口」として描かれていると思います。

 村上春樹の作品は戦争を繰り返してきた近代日本への強い批判を常にどこかに秘めながら一貫して書かれています。村上春樹が自分にとって永遠のヒーローであると考える「羊男」は近代日本の中での戦争忌避者でした。

 『羊をめぐる冒険』の「僕」と「羊男」との会話によると、「羊男」は「十二滝町」の生まれのようです。「羊男」は、その「十二滝町」のさらに山の上の古い牧場跡に住んでいるのですが、下の町は「好きじゃないよ。兵隊でいっぱいだからね」と語っています。

 その「十二滝町」に至る「入り口」の街としてあるのが「旭川」です。ですから「旭川」は近代日本の戦争の「死者の世界」「霊魂の世界」に繋がる「落とし穴」「入り口」として描かれているのではないかと思うのです。

 つまり「作りそこねた」とは「作りそこねた近代日本」のことではないでしょうか。「作りそこねた(近代日本の)落とし穴(入り口)みたい」とレイコさんが言っているのだと、私は思います。

 さて、そのレイコさんは、レイコン、霊魂、直子のお化けであると前回から書いてきました。なぜなら、レイコさんは、死んだ直子の洋服を着て、「棺桶みたいな電車」である新幹線に乗って、東京の「僕」に会いに来るからです。そして「旭川」に旅立って行きます。

 そのレイコさんはサナトリウムに入る前には結婚をしていました。彼女の結婚相手の実家は「四国の田舎の旧家」とのことです。

 ですからレイコさんは「霊魂の世界」への「入り口」である「四国」(死国)と繋がりがある人で、「霊魂の世界」のような京都のサナトリウムからやってきて、僕と四回(死回・死界)交わり、「霊魂の世界」の「入り口」である「旭川」に向かう人です。つまり「四国」と「旭川」を結ぶ人でもあるのです。

 そういえば『海辺のカフカ』の甲村記念図書館も「高松市の郊外に、旧家のお金持ちが自宅の書庫を改築してつくった私立図書館」でした。四国の田舎の旧家と高松市の郊外の旧家では、両者は同じものではないでしょうが、でもどこか繋がっていくような感覚もありますね。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

******************************************************************************

「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

 https://shunyodo.co.jp/shopdetail/000000000780/

© 一般社団法人共同通信社