「村上春樹を読む」(5) いろんな野菜の心があり、いろんな野菜の事情がある 『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』を読む

『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』

 「それほど空腹は感じないけど、何かちょっとお腹にいれておきたい」ということがありますよね。日本でならば「今日の昼はざるそばぐらいでいいな」と思うときです。外国にいると、ざるそばというわけにもいかず、そんなとき、村上春樹はよくシーザーズ・サラダを食べるそうです。

 久しぶりの村上春樹のエッセイ集『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』が刊行されましたが、そのなかに「シーザーズ・サラダ」というエッセイがあって、以上のようなことが記してあります。

 「新鮮なロメインレタス」に「具はクルトンと卵黄とパルメザン・チーズだけ。味付けは上質のオリーブオイル、すりおろしたガーリック、塩、胡椒、搾ったレモン、ウースター・ソース、ワインビネガー」というシーザーズ・サラダの正統レシピも紹介されていますので、私も一度自分でチャレンジしてみたいと思います。特にレタスは「ぴちぴちした新鮮なロメインレタス」でなくてはだめで、「普通のヘッドレタス」は論外。「サニーレタスなんか使われた日にはたまったものじゃない」とも注記されています。

 「あまり肉を食べない人間なので、野菜がどうしても食事の中心になる」という言葉も別なエッセイにありますが、野菜や果物への村上春樹の愛着がよく伝わってくる本です。

 何しろ本の名が『おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2』。野菜と果物を合わせたタイトルです。「村上ラヂオ2」のほうは、ちょうど10年前、同じ村上春樹・文、大橋歩・画のコンビで雑誌「アンアン」に連載された『村上ラヂオ』のカムバック版ということです。

 ですから本の題名は『村上ラヂオ2』だけでもよかったはずですが、それではあまりに素っ気ないと思ったのでしょうか、「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」がメインタイトルとして付けられました。

 さて、今回の「村上春樹を読む」は、この「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」という題名はいったい何を示しているのかということを少し考えてみたいと思います。もちろん、エッセイを楽しく味わいながらですが。

 この題は「おおきなかぶ」と「アボカドはむずかしい」という2つのエッセイを合わせたものです。「おおきなかぶ」は有名なロシア民話「おおきなかぶ」についてのエッセイ。「アボカドはむずかしい」のほうは「世界でいちばんむずかしいのは、アボカドの熟(う)れ頃を言い当てることではないか」と考える著者のアボカドをめぐるエッセイです。

 読んでいただければ分かりますが、本当に野菜や果物が登場するエッセイが多い本です。何しろ巻頭のエッセイが「野菜の気持ち」というタイトルです。どうしてもパイナップルの絵だけは描かなかった画家ジョージア・オキーフについての「オキーフのパイナップル」というエッセイもあれば、決闘の間、サクランボを食べ続けるプーシキンの短編小説をめぐる「決闘とサクランボ」もあります。

 個人的には「うなぎ屋の猫」というエッセイが楽しかったです。そのエッセイのなかで青山の有名なスーパー「紀ノ国屋」で思案しつつ野菜を買っていた20代の村上春樹のところへ、年配の店員がやってきて、新鮮なレタスの選び方を熱情を込めてレクチャーします。その人はもしかすると「紀ノ国屋」の社長さんなんですが、そこで村上春樹は「レタスの選び方を覚えた」と書いています。

 紹介したように「シーザーズ・サラダ」にはロメインレタスやヘッドレタス、サニーレタスのことが出てきますが、この「レタス」という野菜に対する村上春樹の思い入れもなかなかのものです。

 私が「うなぎ屋の猫」を楽しく読んだのは、村上春樹の長編『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)に出てくる「レタス」のことを思い出したからです。『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」はスーパー紀ノ国屋が好きで、しばしばレタスを買いに行きます。理由は「ここの店のレタスがいちばん長持ちする」からです。「閉店後にレタスを集めて特殊な訓練をしているかもしれない」と「僕」は思ったりもします。

 村上春樹は同作で、このレタスのことを「調教済みのレタス」と呼んでいますが、同作の刊行後、「調教済みのレタス」を買うためにわざわざ紀ノ国屋まで行った村上ファンもいました。そんなことを思い出したのです。

 「うなぎ屋の猫」には「新鮮なレタスの選び方」が具体的に書かれていないのがちょっと残念ですが、このエッセイを読みながら「へー、あれは紀ノ国屋の社長(かもしれない人)に学んだのか」と思いました。

 さてさて、なぜ「おおきなかぶ」と「むずかしいアボカド」が最新エッセイ集のタイトルに付けられたのか。その問題です。

 そのことを考えるのに、適した印象的なエッセイがあるので、それを紹介しながらタイトルの意味を探ってみたいと思います。

 それは「体型について」というエッセイです。これは野菜・果物に関するエッセイではなくて、村上春樹がときどき参加する千葉県でのフルマラソンの話です。このレースに参加すると、近くにあるホテルの大浴場の割引入場券がもらえます。42キロを走り終えて汗が乾いて白く塩になっているし、「これはいいや」と思って、村上春樹も一度、その浴場に足を運んでみたそうです。

 浴場に入り、しばらくしてふと気がつくと、周囲の人が全員ほとんど同じ体つきをしています。みんなだいたい痩せて、日焼けして、髪が短く、引き締まった2本の脚を持っている…。そこにいる全員がレースを走り終えたランナーだったのです。そこで村上春樹は「どうも視覚的に落ち着かない」気分になって、早々に風呂を引きあげてしまうのです。

 村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007年)という本があるほどのマラソン好きです。でも、まわり中が同じマラソンランナーばっかりだったら「どうも視覚的に落ち着かない」気分になり、居心地が悪くなってしまう人間なのです。

 そしてエッセイの最後に「いろんな体型の、いろんな顔つきの、いろんな考え方をする人たちが適当に混じり合い、適当にゆるく生きている世界というのが、僕らの精神にとっていちばん望ましいのかなと思う」と村上春樹は述べています。

 ここに記されているのは単一的なもの、すべてが同じものにそろっていることへの嫌悪です。別に一緒に走ったランナーが嫌いというわけではないでしょう。そういうことではなくて、たった一つのタイプの人間しかいない、規格外のものは排除されてしまうような世界というものへの嫌悪や拒否、居心地の悪さを書いているのです。

 なぜなら村上春樹にとって、日本の近代社会とは、効率を求めて、一つの価値観、一つの視点から人間を整列させるような社会であり、その一つの価値観に合わない人間は排除されてしまうような社会なのです。

 こういう価値観の社会に一貫して抗するように書かれてきたのが村上作品なのです。そんな効率社会に抗することは、話題となったカタルーニャ国際賞の受賞スピーチでも述べられていましたが、同様のことが、自分の好きなマラソンランナーたちと一緒に風呂に入っているなかでも考えられている点が、実に村上春樹らしいと思いました。

 さてそこで巻頭エッセイ「野菜の気持ち」を読むと、こんなことが書いてあるのです。

 『世界最速のインディアン』という映画のなかでアンソニー・ホプキンス演じる老人が隣家の男の子に向かって「夢を追わない人生なんて野菜と同じだ」というのだそうです。それに対して、男の子が「でも野菜って、どんな野菜だよ?」と突っ込みを入れます。すると老人が「ええと、どんな野菜かなあ。そうだなあ、うーん、まあキャベツみたいなもんかなあ」と答えるのです。こんな老人と少年のやりとりを紹介しながら、村上春樹は自分のキャベツ好きとロールキャベツへのつらい記憶を語っています。

 そして「夢を追わない人生なんて野菜と同じだ」などと誰かにきっぱり言われると、つい同意してしまいそうになるけれど「考えてみれば野菜にもいろんな種類の野菜があるし、そこにはいろんな野菜の心があり、いろんな野菜の事情がある」と書いています。だから「何かをひとからげにして馬鹿にするのは良くないですね」と記しているのです。

 これは同じ体型ばかりのなかにいると「どうも視覚的に落ち着かない」気分になってしまう感覚、価値観と同じですね。

 風呂でマラソンランナーたちのなかにいても、また野菜についても、村上春樹はこのように1つの視点、1つの価値観から一元的に見るという考え方を嫌っているのです。

 この「おおきなかぶ」「むずかしいアボカド」という野菜と果物が並んだタイトルは「野菜にもいろんな種類の野菜がある」「何かをひとからげにして馬鹿にするのは良くないですね」という村上春樹の考え方のきっと反映でしょう。

 さらに少し加えれば、村上春樹は2つの世界が交互に進んでいく小説をよく書きます。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『海辺のカフカ』『1Q84』…などが、その例ですが、よく読むと、それ以外の作品にも2つの世界が並行的に書かれているものはかなりあります。

 これも一元的な価値観への抵抗の形が、そのまま物語の形になっていると考えてもいいと思います。村上作品の世界は、いろいろ異なったものの魂が心の深いところで呼応して、それらが響き合うという形をしています。

 この「おおきなかぶ」「むずかしいアボカド」と2つ並べたタイトルも、1つだけの視点に抗して、2つパラレルにある世界への愛着があらわれたタイトルだと思います。

 もう1つ、指摘しておきましょう。

 「おおきなかぶ」にも「むずかしいアボカド」にも言葉の感覚として、一般的な価値観からは少し外れたような感じがあります。

 効率を求めて、1つの価値観からすべてを判断して、その価値観から外れたものは排除されてしまう社会が村上春樹の考える近代日本社会ですが、そういう社会の価値観に抗する意味が「おおきなかぶ」と「むずかしいアボカド」に込められているのかもしれません。一般的な価値観からは少し外れたように見える「おおきなかぶ」や「むずかしいアボカド」を自分は大切にしたいという思いです。

 さらに「医師なき国境団」というエッセイが、この本のなかにあるのですが、これは「国境なき医師団」を逆転させたタイトルです。そこに小林多喜二『蟹工船』が近年話題になったことが書かれています。古典が見直されることは良いことですが、でも「虐(しいた)げられたものの視点で世界を眺めるなら、いっそ蟹の視点から見た『蟹工船』を書いてみたらどうだろう」と村上春樹は考えています。

 たとえ虐げられた世界を考えるにしても、つい人間は無意識のうちに人間中心的な思考におちいりがちです。人間中心の、1つの考えだけで社会を判断しがちです。「おおきなかぶ」「むずかしいアボカド」という野菜や果物の、やや規格外のものの視点から、世界を考えてみるのも大切ではないでしょうか。そんなことを思って、つけられたタイトルかなとも考えました。(小山鉄郎・共同通信編集委員)

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「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

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