「村上春樹を読む」(14)『国境の南、太陽の西』の青い歴史 『ねじまき鳥クロニクル』の「青」を考える・その2

 

『国境の南、太陽の西』単行本の本体(左)は青一色、カバー(右)は青から白へのグラデーション

 『ねじまき鳥クロニクル』(1994年、95年)は、村上春樹がノモンハン事件など戦争のことを中心に据えて書いた物語なので、著者にかなりの労力を強いる作品だったようです。作品への労力に関しては、村上春樹はいつも惜しみなく注ぎ込む人なので、このことは変わりないのだと思いますが、ふつうは作品が発表される時には、格闘ぶりが読者には見えないような形で出てきます。でも『ねじまき鳥クロニクル』については、外に表れただけでも、その格闘ぶりがいくつかうかがえるのです。

 まず前回も紹介したように『ねじまき鳥クロニクル』は第1部と第2部が1994年に発表され、それでいったん完結した作品として刊行されました。ところが翌1995年になって、その続編の第3部が刊行されるという異例の形式となりました。

 同じ1984年の日本を舞台とした『1Q84』もBOOK1、2が2009年に刊行されて、BOOK3が2010年に刊行されているのですが、この『1Q84』は当初からBOOK3が刊行されることは織り込み済みだったようです。でも『ねじまき鳥クロニクル』の場合は第1部第2部が書かれた後に、第3部が書き出されているのです。これはずいぶん作品と格闘したことの痕跡でしょう。

 そして『ねじまき鳥クロニクル』には、もう1つ特徴があって、同作の一部として作中に含まれるはずだった部分が、別な長編として取り出されているのです。それが1992年に刊行された『国境の南、太陽の西』です。

 今回のコラム「村上春樹を読む」は前回に続いて『ねじまき鳥クロニクル』という作品と「青色」との関係についてがテーマですが、そのことを考える前に、もともとは同作の一部だった『国境の南、太陽の西』について紹介してみたいと思います。なぜなら『国境の南、太陽の西』の単行本のカバーを外してみると、この本は「青」一色であるからです。またカバーも本の中の扉も青色から白へのグラデーションとなっているのです。

 同作の最後には「僕」が眠らずに夜明けを待つ場面があります。「空の端の方に一筋青い輪郭があらわれ、それが紙に滲む青いインクのようにゆっくりとまわりに広がっていった。それは世界じゅうの青という青を集めて、そのなかから誰が見ても青だというものだけを抜き出してひとつにしたような青だった。僕はテーブルに肘をついて、そんな光景を何を思うともなくじっと見ていた」という「青ずくめ」の場面です。

 それに続いて「しかし太陽が地表に姿を見せると、その青はやがて日常的な昼の光の中に呑み込まれていった。墓地の上にひとつだけ雲が浮かんでいるのが見えた。輪郭のはっきりとした、真っ白な雲だった」という、その「青」が白い雲の描写に移動していく文章があります。

 単行本の「青」一色の本体、さらにカバーや扉の「青」から「白」への移行などの装丁は、おそらく、この文章を反映したものでしょう。

 ちなみに同作の真ん中あたりには「寝室の窓からは青山墓地が見えた」とあるので、紹介した文章の最後の「墓地の上に…」という墓地は「青山墓地」のことです。

 その『国境の南、太陽の西』という小説の中身を少しだけ紹介すると、同作では主人公の「始」が通う小学校に「島本さん」という女の子が転校してきて、「僕」(始)は同級生の島本さんと親しくなります。

 冒頭近くに僕が島本さんの家に遊びに行って、ナット・キング・コールの『プリテンド』などを、レコードで聴く場面があるのですが、その時、島本さんは「丸首の青いセーター」を着ています。さらに続けて「彼女は何枚か青いセーターを持っていた。たぶん青い色のセーターが好きだったのだろう」と記されているのです。

 ちなみに『プリテンド』はこの作品では重要な役割を担う歌ですが、その歌を小学生の「始」と「島本さん」はあまりに繰り返し聴いたので「始めの部分を口真似で歌うことができた」と書いてあります。「プリテンニュアハピーウェニャブルウ/イティイズンベリハートゥドゥー」という小学生の2人には呪文のようなものだった歌詞が書いてあります。そして「今ではもちろんその意味はわかる」として「辛いときには幸せなふりをしよう。それはそんなにむずかしいことではないよ」という訳が記してあります。

 英語では「Pretend you're happy when you're blue/It isn't very hard to do」という歌詞で、その中にも「blue」という言葉が出てきます。訳の「始め」で村上春樹が「辛い」と訳した部分です。その「始めの部分を口真似で歌うことができた」というのですが、ここは「僕」の「始」という名を織り込んだ文章ともなっていて、こういう部分の村上春樹の一貫性というか、こだわりというのはすごいですね。さらに「今ではもちろんその意味がわかる」という「今」とはいったい、いつのことかな…と読者は思ったりもします。

 そして「僕」と「島本さん」は小学校を出た後、別の中学に進みます。さらに「僕」が電車の駅で2つ離れた町に越してしまい、まもなく2人は別れてしまうのですが、36歳の時、僕が経営するジャズ・クラブに島本さんが訪ねてきて再会するのです。その時の島本さんは「青い絹のワンピースの上に、淡いベージュのカシミアのカーディガン」という服装でした。さらに「ワンピースの色によく似た色合いのバッグ」を持っているのです。

 そこで、僕が「君は今でも青い服を着ているんだね」と言うと、島本さんは「そうよ。私は昔からずっと青い服が好きなの。よく覚えているのね」と答えています。

 その僕の経営するジャズ・クラブは「青山」にありますし、再会後、島本さんはしばらく僕の店に姿を見せなかったのですが、僕が37歳となった時にまた島本さんがやってきます。その夜の島本さんは「ライト・ブルーのタートルネックのセーターに、紺色のスカート」姿なのです。

 そして、今度は「白いワンピースの上に、ネイヴィー・ブルーの大ぶりなジャケット」姿で現れた島本さんと、僕は箱根の別荘に行って、ついに2人は結ばれるのです。しかし一夜明けると島本さんは、あとかたもなく、何の痕跡もなく「僕の前から消えてしまった」という小説です。

 前回のコラムで紹介しましたが、『ねじまき鳥クロニクル』の第2部には、夢の中で「僕」が紺色のスーツに、紺にクリーム色の小さな水玉の入ったネクタイをして、加納クレタと性的に交わる場面があって、その時、加納クレタは「僕」の妻クミコのワンピースを着ています。そのクミコの夏物のワンピースは「淡いブルーで、鳥の模様がパターンとして、透かし彫りのように入っている」とあります。

 この部分は「青」を共通色として、3冊ともに鳥の模様が透かしのように入った『ねじまき鳥クロニクル』の旧版文庫の表紙の装丁などにも対応している文章ではないかと思います。単行本の『ねじまき鳥クロニクル』の装丁にも3冊ともに鳥の模様が透かしのように入っているのですが、その「鳥の模様がパターンとして、透かし彫りのように入っている」クミコの夏物のワンピースは「淡いブルー」の色なのです。そのように『ねじまき鳥クロニクル』のクミコも、『国境の南、太陽の西』の島本さんも「青」をめぐる女性なのです。

 村上春樹自身が「メイキング・オブ・『ねじまき鳥クロニクル』」(「新潮」1995年11月号)で明かしていることですが、この『国境の南、太陽の西』の第1章が『ねじまき鳥クロニクル』の第1章となるはずのものでした。

 もちろん現在われわれが読める作品とは随分異なる形だったでしょうが、『国境の南、太陽の西』と『ねじまき鳥クロニクル』とを合わせた、原『ねじまき鳥クロニクル』ともいうべき物語が存在したということです。それはきっと、青い色で貫かれた作品だったのではないかと思われます。

 さて前回と今回、『国境の南、太陽の西』と『ねじまき鳥クロニクル』を貫く、「青」について紹介してきましたが、その「青」が村上春樹作品の中で、いったいどんな意味を持っているのかということを、考えなくてはなりません。

 村上春樹作品にとって「青」とは何か。今回もコラムが長くなりそうなので、私なりの結論を先に記しておきましょう。村上春樹作品にとっての「青」、それは「歴史」または「歴史意識」というものを示す色なのではないかと私は考えています。

 その「青」と「歴史」の繋がりについて、具体的に挙げてみたいと思います。まず『国境の南、太陽の西』で、「僕」が37歳となった時、島本さんが青山のジャズ・クラブに訪ねてくるのですが、この時、僕はカウンターに腰掛けて、本を読んでいます。すると島本さんは「何を読んでいるの?」と、僕の本を指さして言うので、僕は島本さんに本を見せます。

 「それは歴史の本だった。ヴェトナム戦争のあとに行われた中国とヴェトナムとの戦争を扱った本だ」と記されています。

 「もう小説はあまり読まないの?」と島本さんが、本を僕に返して、そう言います。

 その後に、新しい小説はほとんど読まなくなってしまった僕と、「新しいのも古いのも。小説も、小説じゃないのも」読んでいるという島本さんの話がしばらくあります。私はこの場面は、新しい小説を「僕」があまり読まなくなってしまったことよりも、「僕」が「歴史の本」を読んでいることに注目すべき場面だと思っています。

 なぜなら『国境の南、太陽の西』という小説自体が「歴史」を描いた物語だからです。

 この作品の主人公の命名は村上春樹作品の中でも非常に変わったものです。同作の書き出しは「僕が生まれたのは一九五一年の一月四日だ。二十世紀の後半の最初の年の最初の月の最初の週ということになる。記念的といえば記念的と言えなくもない。そのおかげで、僕は『始(はじめ)』という名前を与えられることになった」と記されています。村上春樹は登場人物の名付けに非常にこだわる作家ですが、冒頭で、その名前と由来が示される長編はとても珍しいと思います。

 そして、僕と島本さんが箱根で激しく結ばれた後、島本さんが忽然と消えてしまうのは、2人が37歳の時です。

 計算してみると、それは1988年のことです。年号でいえば昭和63年のことです。昭和64年は実際にはわずか7日で終わってしまいます。ですから昭和63年というのは、もうすぐ昭和が消えていくという年なのです。なお1月7日は始の誕生日1月4日と3日のズレがありますが、同年の1月7日は土曜日なので、その年の最初の月の最初の週の日という意味では共通した部分もあります。

 まあそれはさておき、つまり『国境の南、太陽の西』は20世紀の後半の最初の年に生まれた「始」が、ほぼ「昭和が終わる」までの日本社会を生きていく小説となっているのです。『国境の南、太陽の西』の刊行は1992年10月12日ですが、この作品は村上春樹が「昭和」という時代が終焉して書いた初めての長編作品です。このように受け取ってみれば、「始」という村上春樹の長編の主人公としては随分変わった名前も、すんなり届く名前だと思えるのです。

 その「始」と「島本さん」は小学生時代、12歳の時に、島本さんの家でレコードを聴きながら、じっと手を握りあったことがあります。そして小学校を卒業して、2人は会わなくなります。その2人が37歳の時にこんな会話をします。

 「若く見えるわよ。三十七にはとても見えないわ」と島本さんが言うと、「君もとても三十七には見えない」と始が言います。「でも十二にも見えない」「十二にも見えない」と言い合うのです。

 また計算してみると分かることなのですが、2人が12歳の時とは、つまり1963年のことです。「1963年」はこのコラム「村上春樹を読む」でも何度も記していますが、村上春樹にとって、原点とも言うべき年です。「ケネディー大統領が頭を撃ち抜かれた年」です。「僕」や「鼠」や「左手の小指のない女の子」が集う「ジェイズ・バー」が「僕」の「街」にやってきた年です。そのころからヴェトナム戦争が激しくなった年です。『風の歌を聴け』の「僕が寝た三番目の女の子」で、21歳で死んでしまった彼女が「人生の中で一番美しい瞬間」の年でもありました。

 つまり、ここで「僕」と「島本さん」が語っているのは、単に12歳から37歳までの2人の別れと再会の話ではありません。「僕」と「島本さん」が、じっと手を握りあった12歳の頃から、日本は山を崩して、海を埋め立てて、高層ビル群を建てるというような計画を進め始めました。そのような「昭和」という時代がまもなく終わろうとしているのです。そんな日本の「歴史」が語られているのです。少しの飛躍があることを知って記すのですが、私は「島本」さんの名前は「島国日本」の省略形だろうと考えています。

 それはともかく「青」を「歴史」を表す色と考えると、『国境の南、太陽の西』は20世紀後半の「昭和」という時代が終わるまでを書いた物語と思えてきますし、それはバブル経済、真っ盛りの時代ですが、「昭和」の終わりとともに「青」の「島本さん」が「僕」の前から消えてしまうことも理解できるのです。

 「青」が「歴史」や「歴史意識」のことであり、「島本さん」は「島国日本」のことであり、その「島本さん」の消滅は「昭和」の終わりのことだろう。そのように私は考えているのですが、でもやはり、それはちょっと飛躍がある考えだと感じられる人もいるかもしれませんので、1つだけ加えておきましょう。

 『1Q84』という長編が『ねじまき鳥クロニクル』と対応して書かれていることは、よく知られています。それは前記したように『ねじまき鳥クロニクル』の作中の時代が1984年から始まっているからです。

 そして『1Q84』は主人公の1人の「青豆」という女性が、高速道路を走るタクシーの中でヤナーチェックの『シンフォニエッタ』という曲を聴いている場面から始まっています。このため『1Q84』の本ばかりでなく、ヤナーチェック『シンフォニエッタ』のCDがよく売れたほどです。

 その『シンフォニエッタ』は1926年作曲の作品です。それは年号でいえば大正15年、昭和元年のことです。作中にも「一九二六年には大正天皇が崩御し、年号が昭和に変わった」と記されています。つまり「昭和」の開幕を告げる年に生まれた音楽から、『1Q84』は始まっているのです。これも「昭和」を強く意識した作品であることは間違いないでしょう。このように村上春樹の「昭和」へのこだわりはとても深いと思います。

 さてさて、では『ねじまき鳥クロニクル』の「青」と「歴史」はどういうふうに描かれているでしょうか。そのことをここで続けて書きたいのですが、ここまででもかなり長い文章となってしまいましたので、続きは次回のコラム「村上春樹を読む」で述べたいと思います。

 なお今回紹介した『国境の南、太陽の西』については、同作の中の「青」や「赤」などの色に関する詳細な考察が加藤典洋著『村上春樹 イエローページ』にあります。『国境の南、太陽の西』を「色の物語」として考えた初めての本です。興味のあるかたは『村上春樹 イエローページ』も、ぜひ読んでみてください。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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