「村上春樹を読む」(12) 非常に近い「死」と「生」の世界  『ノルウェイの森』の装丁の意味

『ノルウェイの森』の上巻(左)と下巻

 村上春樹は作中にも、装丁にも色(カラー)をいくつも配置して書いていく作家です。

 その村上春樹の作品や装丁に示される色はどんな意味を持っているのでしょうか。このコラムで何回か考えていきたいと思っています。

 この村上春樹作品と色の問題を、私がはっきり意識的に考えるようになったのは『ノルウェイの森』(1987年)の装丁を手にした時からです。

 そして、村上春樹の作品を読むときに、一番わかりやすい入り口が、この『ノルウェイの森』の装丁のことだと私は思っています。ですから、今回の「村上春樹を読む」は、そのことについて紹介しておきたいと思います。

 この装丁は、あまりに有名ですが、上巻が赤、下巻が緑という、とてもシンプルなものです。

 私が『ノルウェイの森』で、村上春樹にインタビューした時には、まだこの本の装丁が出来上がっていない段階でしたが、その後、この赤と緑の上下本を手にした時の不思議な感覚は忘れることができません。

 前回の「村上春樹を読む」でも記したように、『ノルウェイの森』の前の長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)の装丁が桃色で、次の長編が赤と緑という装丁だったのです。しかも『ノルウェイの森』の装丁は、村上春樹が自ら手がけたものでした。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のピンク一色の装丁については「この作品を成功に導いたピンクのスーツの似合う女の子の活躍の記念碑としてあるのだろう」と受け取ることができました。

 ならば、この『ノルウェイの森』の赤と緑の装丁は、どのような意味を持っているのか。しかも村上春樹自身がその装丁を手がけているとすれば、そこには、さらに深い意味が込められているのではないのか。そんなことを思いながら、インタビュー記事を書いていたのです。

 この装丁に使われた「赤」と「緑」は、村上春樹が初期から、一貫してこだわっている色です。例えば初期三部作の『羊をめぐる冒険』(1982年)の最後には「緑のコードは緑のコードに…赤のコードは赤のコードに…」という言葉がありますし、さらに『海辺のカフカ』(2002年)には「緑は森の色だ。赤は血の色だ」という言葉が記されています。

 『ノルウェイの森』には、ビートルズの『ノルウェイの森』が好きで、最後に森の奥で自殺してしまう直子という女性が出てきます。その直子のことに触れながら、この本の赤と緑の装丁について、インタビュー記事の中で、次のように書きました。

 「著者自ら装丁したというこの本は、上巻が血を思わせる濃い赤。下巻は直子が死んだ森を思わせる深い緑。そして本文中に唯一ゴシックで書かれた『死は生の対極としてではなく、その一部として存在している』という一文を反映するように、上下巻のタイトルはそれぞれ逆の色で表紙に刷り込まれている」

 25年も前に書いた自分の記事を引用するのも、懐かしくもあり、また不思議な気持ちでもありますが、赤と緑の『ノルウェイの森』の装丁についての私の考察は、この時、記したことから基本的に変化していません。

 村上春樹自身も『海辺のカフカ』の中で書いているように、「赤」は血の色、「緑」は森の色ですが、この『ノルウェイの森』の「赤」も血のような生命力を表していて、「緑」のほうは直子が死んだ森の色で、死を表していると思います。

 紹介したインタビュー記事の中でも触れていますが、『ノルウェイの森』の装丁をよく見てみると、その上巻は全体が赤の中に、タイトルと著者名だけが緑になっています。逆に下巻のほうは全体が緑の中に、タイトルと著者名だけが赤になっています。

 そして、この本の中で、唯一、ゴシック体で印刷された「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」に「赤」と「緑」の意味を当てはめてみると、上巻は「死(緑)は生(赤)の対極としてではなく、その一部として存在している」という装丁になっています。このゴシック体で印刷された言葉が、そのまま『ノルウェイの森』の上巻の装丁に表現されているのです。

 ですから、下巻のほうは「生(赤)は死(緑)の対極としてではなく、その一部として存在している」という装丁です。

 では、村上春樹は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉と、それを表現した装丁で、いったいどんなことを伝えたいのでしょうか。

 それは、つまり「死」の世界と「生」の世界が非常に近いということです。日本人というものは「死」と「生」が非常に近い世界を生きているということだと思います。

 そして、この「死」と「生」の世界が、非常に近いということが、村上春樹作品の最大の特徴でもあるのです。

 でも、この『ノルウェイの森』には「春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように瑞々しい生命感」をもった「緑」という女の子が出てきます。死の象徴である森の色が、生命力のかたまりのような女性の名前に付けられているのです。

 そして直子の恋人で「僕」の高校時代の友人だったキズキという男の子が赤いホンダのN360の中で自殺しています。映画『ノルウェイの森』は、自動車の中で排気ガスでキズキが死ぬ場面から始まっていますが、そのことです。

 だから「赤」のほうが「死」の色で、生命力溢れる「緑」のほうが「生」の色だと考える人もいます。こういう反転がいくつも書かれているのが、村上春樹作品の特徴なのですが、この「赤」=「死」、「緑」=「生」という考えに従えば、下巻の装丁のほうが「死(赤)は生(緑)の対極としてではなく、その一部として存在している」を表していることになります。

 ただ、私の考えをもう少し加えておきますと、村上春樹にとって、「森」という場所は「死」や「霊魂」「記憶」などが在る、混沌とした世界です。その「森」を表す緑色は、このような「死」「霊魂」に近い色として使われていることが多いと思います。

 例えば『ノルウェイの森』の第四章で、「緑」という女性と「僕」が初めて、大学のキャンパスで会話する場面があります。

 ここで「僕」は緑色のポロシャツを着ています。それを見て「緑」が「緑色は好き?」と質問をするのです。それ対して「僕」は「とくに好きなわけじゃない」と答えています。

 この時、「僕」は金沢から能登半島をまわって新潟まで行ってきた、2週間ぐらいの1人旅から帰ってきたばかりです。『ノルウェイの森』の終盤で、直子が死んでしまった後、やはり「僕」が山陰のほうまで1人旅に出る場面があります。その2回の「僕」の1人旅が、作中で対応している場面です。直子が死んでしまった後の「僕」の1人旅の場面は映画『ノルウェイの森』でも出てきましたね。

 でもこれらの1人旅について、「緑」と「僕」が出会った、この最初の1人旅の時点で、実はもう「直子」は既に死んでいたのではないか。そのことを村上春樹は記しているのではないか、という指摘もあります。(加藤典洋著『村上春樹イエローページ』の中で、そのような考えが提出されています)

 確かに、そのように読むことも可能な場面です。もしそうであれば、直子の死の直後ということになるので、緑色のポロシャツが死や霊魂と近い色としてあるということになります。

 でもそういうふうに読まなくても、つまり普通に読んでも、この場面で「僕」が身に着けている「緑色」は、生命力の側を表すような記述にはなっていないと思います。

 2週間ぐらいの1人旅から帰ってきたばかりの「僕」は「孤独が好きなの?」と「緑」に問われて、「無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことをしたってがっかりするだけだもの」と答えているのです。やはり緑色のポロシャツを着た「僕」は、生命力とは反対側のもののような存在となっていると思います。

 そして前回も紹介しましたが、この後に続いて「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない? まるで呪われた人生じゃない、これじゃ」と「緑」が言うのです。

 これも緑色(死)は「緑」という女の子が表すもの(生命力)と逆の色であることが表明されている言葉だと思います。

 「ミドリっていう名前」、つまり死を表す色の名前なのに、生命力がある人間なので「全然緑色が似合わない」のが「緑」という女性なのです。そういうことが、述べられた言葉でしょう。

 ですから、私は上巻のほうが「死(緑)は生(赤)の対極としてではなく、その一部として存在している」で、下巻のほうは「生(赤)は死(緑)の対極としてではなく、その一部として存在している」という装丁になっているのだと思っています。

 それでもやはり緑を生の色、赤を死の色と考える人たちもいるかもしれません。そして、そういう考えも可能だろうと思っています。

 たとえ、そのどちらであっても、この『ノルウェイの森』の赤と緑の装丁から受け取るべき最も大切なことは「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ということが、そのまま装丁となっているということなのです。

 この「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉は『ノルウェイの森』のもとになった短編「螢」の中でも、唯一ゴシック体で印刷されているところで、村上春樹の文学世界の中心的な考えの一つです。

 さらに「僕の『方丈記』体験」という副題のついた「八月の庵」という村上春樹のエッセーについても紹介しておきたいと思います。これは日本の古典文学についての珍しい村上春樹のエッセーです。

 それは、小学生の村上春樹が、父親に連れられて琵琶湖近くにある芭蕉の庵を訪ねる話です。村上春樹の父親は俳句サークルのようなものをやっていて、何カ月かに一度、句会を兼ねた遠出をしていたようです。

 小学生の村上春樹は、もちろんその句会に参加せず、句会の間、一人縁側で外の景色を眺めています。そこで、少年・村上春樹は死について考えるのです。

 「死は存在する、しかし恐れることはない、死とは変形された生に過ぎない」と考えるのです。

 この考えは『ノルウェイの森』の装丁である「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉に非常に近いものですね。

 このエッセーは1981年の雑誌「太陽」の『方丈記』特集に寄稿されたものです。1979年の『風の歌を聴け』のデビューからわずか2年後の文章です。

 そして『ノルウェイの森』の原型となった短編「螢」が発表されたのが「中央公論」1983年1月号です。

 いかに村上春樹が、その出発から一貫して自分の世界を追究し、作品世界を広げ続けてきたかがよくわかります。

 その世界が、装丁の中に凝縮された形で、表現されているのが、『ノルウェイの森』なのです。

 私がこのコラム「村上春樹を読む」で、村上春樹の作品に出てくる霊魂やお化けのことを紹介したり、村上春樹の「四」という数へのこだわりについて書いたりしていますが、その出発点となったのが『ノルウェイの森』の装丁なのです。

 ぜひ「生の世界」と「死の世界」が近いという視点から、村上春樹の作品を読んでください。村上春樹の作品世界が、いままでと違って、別な角度から、見えてくるかもしれません。

 さて、以下は次回のコラム「村上春樹を読む」の予告のようなものです。

 『ねじまき鳥クロニクル』(1994年、95年)の文庫の新装版というものが出て、その装丁を見た時にも、やはり、その色に驚きました。

 これは第1部が緑、第2部が赤、第3部が青となっています。各巻とも深い色ではなく、みなやや明るい色合いですが、でもそのようになっています。上下2巻の『ノルウェイの森』の装丁と比べてみれば、全3巻の『ねじまき鳥クロニクル』の新装版の文庫は「緑」「赤」に、「青」が加わった装丁となっています。

 『ねじまき鳥クロニクル』の中での「色」はどのようなものなのか。「赤」と「緑」だけでなく、その「青」は何を意味しているのか。その点について、次のこの「村上春樹を読む」で考えてみたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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