怪物が振り返る全国高校サッカー「注目されていると感じなかった」 100回目の選手権、長崎・国見のレジェンド(2)

高校選手権の試合でゴールを決め喜ぶ国見の平山相太選手(当時)=2004年

 全国高校サッカー選手権で節目となる第100回大会が12月28日に開幕する。長崎・国見で2度の優勝と大会通算17得点の最多記録をマークした平山相太氏(36)がインタビューに応じた。現在は指導者を目指して仙台大在学中で、「怪物」と呼ばれた当時の思い出を語った。(共同通信=大島優迪)

 ―選手権を意識したのはいつか。

 「小学6年の時にテレビで本山雅志さんがいた東福岡の試合をずっと見ていた。中田浩二さんがいた帝京(東京)と雪が降る中で対戦した決勝も見た。お客さんがすごく入っていて、テレビを通して一人一人の格好良さを感じ、そこで自分もプレーしたいと思った」

 ―福岡県出身。国見に進学した経緯は。

 「中学生の時に、いろいろな高校の練習に参加させてもらった。国見の練習に参加した時にサッカーの練習もすごかったけれど、生徒がサッカー以外の部分でしっかりしていた。あいさつや人間性という部分で驚きとすごさを感じた。それが国見に進学した理由だった。入学してから小嶺忠敏先生(当時国見の監督。現長崎総合科学大付監督)のサッカーと人間性の二つの指導力も、ものすごく感じた」

 ―選手権は1年生で初出場し、優勝を経験。

 「チームとして優勝を目標に掲げて1年間やってきて、その集大成ということで2、3年生の選手権に懸ける思いが強かった。1年生で試合はあまり出ていないけれど、選手権のすごさや、みんなの思いを感じていた。ついていっていたという感覚の方が強い」

 ―1年時に準決勝で初めて国立競技場のピッチに立った。

 「ほとんど覚えていないけれど、緊張はしていなかったと思う。国立の芝生のきれいさに感動していた」

オンラインで取材に応じる平山氏

 ―選手権で一番印象に残ったことは。

 「2年生の時に決勝で市船橋(千葉)に負けた印象が一番強い。決勝の試合でも、自分のパフォーマンスが一番悪かった。3連覇が懸かっている中で優勝できなかった、勝ち切れなかったことが、その理由だと思う」

 ―市船橋に負けて何かが変わったか。

 「市船橋に負けた後、遠征しながら国見に帰っていった。練習試合で広島ユースや広島皆実に負けることがあった。市船橋に負けたことが頭をよぎりながら『次は何とかして勝たないといけない。どうやって勝つか』と考えていた」

 「国見の戦術がある中で自分は特にヘディングを練習した。シンプルにサイドからクロスを上げてもらい、それをヘディングシュートという形に取り組んだ。3年時の全国高校総体前の1カ月は、自主練習でクロスを上げる人に付き合ってもらってやっていた」

 ―3年時は飛び級で20歳以下の日本代表に選ばれ、得点記録とともに大会前から注目された。

 

日本代表として試合に出場し、ヘディングする平山選手(当時)=2010年

「大会前や大会中はほとんどの取材が小嶺先生のところでブロックされていたのだと思う。自分は注目されていたと当時あまり感じなかった」

 「選手権中に泊まっている旅館にあった新聞を読んで記事を見ることはあったけれど、何も思わなかった。3年生は最後の大会だったので同級生と楽しみながらやっていた。記事にはあまり興味がなかった」

 ―北嶋秀朗(市船橋)の通算16得点の大会記録への意識もなかったか。

 そう。北嶋さんが1位ということは知っていて頭にはあったが、それを抜いてやろうという気持ちはなかった。2年生の時に負けたリベンジや、もう一度優勝したい気持ちの方が強かった」

 ―3年時は優勝して締めくくった。

 「優勝したうれしさと、あとは国見での3年間のきついトレーニングが終わるなと思った。選手権が終わると、3年生が、1、2年生と紅白戦をやることが毎年の恒例だった。1、2年生は負けたら(国見から片道約5キロの)狸山に走りにいかないといけない。3年生は楽しそうに紅白戦をしていた。それを1、2年の時に見ていたので『選手権が終わってから、あの楽しい紅白戦が待っている』と思った」

 ―2、3年時に得点王で、通算17得点は大会記録。一番印象に残っている得点は。

 「3年の時に四日市中央工(三重)との準々決勝で決めた得点。自分たちのプレーが良くなくて、相手の良さが出て、苦しい展開がずっと続いたが、残り時間が少ない場面で取れた。展開や状況を含めて印象が強い」

 ―当時は「怪物」と表現された。

 「怪物じゃないけどな、と当時も今も思っている。そう呼ばれて、いろいろな人に自分のことを知ってもらう機会になって、すごくありがたいという気持ちもあった。ただ、自分は自分の道を行くというか、周りに振り回されないで、自分の人生を進んでいきたいとずっと思ってやってきている。あまり自分には影響していない」

 ―全国高校総体や全日本ユースでも優勝しているが、選手権との違いはあるのか。

 「やっぱり選手権での優勝を目標に1年が始まっていた。他の全国大会も優勝を目指していたけれど、選手権は最後の大会ということもある。高校生という一度しかない年代で最も注目されて、一番出たい大会という思いが強い」

 「優勝した後に長崎県でパレードがあったので、反響もすごく感じた。自分たち高校生は選手権がメインで懸ける思いが強かった。メディアも含め、応援してくれている方々、県民の皆さん全員が、選手権への思い入れが強いと思う」

サッカー部総監督でもあった当時の小嶺校長(右)から卒業証書を受け取る平山相太選手=2004年、長崎・国見高校

 ―選手権の経験が今に生きていること。

 「卒業後、プロサッカー選手になって周囲の期待に応えていくのも、自分がやらなければいけなかったことだったと、今そういう思いがある。指導者を目指していく中で、自分を選手として知っている方もたくさんいる。指導者として、そういう期待に応えていく務めが自分に残っている」

 ―現在、仙台大体育学部の4年生。10月に国見で教育実習を行った。サッカー部を指導して思い返したことは。

 「国見のグラウンドは土。自分たちも土のグラウンドで練習していた。高校生の時、土のグラウンドで練習したことによる技術向上はあったんじゃないかなと思った」

 ―仙台大卒業後のキャリアは。

 「しっかりビジョンを持って、やっていこうと思う。いろいろと考えて模索していきたい」

 ―高校生年代でもリーグ形式の公式戦が定着している。今後、トーナメント方式の選手権に期待することは。

 「リーグ戦は選手の向上やレベルアップにつながると思うので継続してほしい」

 「選手権はトーナメント方式の良さもあると思うが、3年生最後の大会になるので、自分としては、もう何試合かやらせてあげたいという思いがある。ワールドカップ(W杯)と同じようなレギュレーション(1次リーグ+決勝トーナメント)だったら、選手にとってすごくいい経験になると思う」

 ―選手権に臨む高校生へのメッセージは。

 「勝っても負けても、何歳になっても、選手権の思い出は忘れない。1試合、1分1秒を後悔しないように全力でプレーしてほしい」

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 平山相太 1985年6月6日生まれ、福岡県出身。長崎・国見で全国高校選手権を2度制し、2、3年時に得点王を獲得。04年アテネ五輪は19歳で代表入り。筑波大、ヘラクレス(オランダ)を経て06年からFC東京でプレー。17年に仙台に移籍し、18年に引退後、指導者を目指し仙台大に進学した。J1通算168試合で33得点。日本代表は4試合で3得点。

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