『偶然と想像』濱口⻯介(監督)- 不確かな偶然が、人生を大きく静かに揺り動かす、魔法のような3つのストーリー!

エリック・ロメールにとっての短編映画の重要性

──監督が今作を撮るきっかけになったのは、エリック・ロメールの編集を長年やっていたマリー・ステファンさんとパリで出会ったことなんですね。

濱口:

もともと短編映画を作るのは好きでしたが、それをどう世に出せばいいかというアイデアがなかなか浮かばず、作りたいけど作れないという状態でした。マリー・ステファンさんとお会いした時に、ロメール監督にとって短編映画を撮ることは、長編を撮る上で非常に大きな役割を果たしていたというお話を伺いました。確かにロメールのオムニバス映画『パリのランデブー』のようなやり方もあるのかと。小さいチームでやることは経済的でもあるし、創作のリズムを作るためにもすごくいい方法でもあるなと思い、実際、マリー・ステファンさんから「あなたも撮りなさいよ」とはっぱをかけられたこともあって、「よし、やろう」と決めました。

──現在公開中の『ドライブ・マイ・カー』は3時間の大作ですが、ほぼ同時期に長編と短編を撮っていたということに驚きました。

濱口:

『ドライブ・マイ・カー』はこれまで体験したことのない規模のプロジェクトだったので、そのための準備をする必要もありました。監督としては『寝ても覚めても』(2018年公開)以来なので、自分の勘を取り戻すためにもやっておこうと。

──村上春樹さんは、長編小説を書くのとは別に「実験の場として」短編小説を書くことが大切だとおっしゃってますが、濱口監督にとっての短編映画もそういう位置付けですか?

濱口:

そうですね。短編の方がチャレンジできるし失敗もできると思います。ただ、小説家が長編と短編を行き来することはわりと普通で、それこそ村上春樹さんのように短編と長編を1つのサイクルにしている作家も多いですが、映画でそれをやるのは状況的に難しいと思っていました。でも、こういうやり方だったらできるんじゃないかというのを今回提示したいなと。

自然と不自然の間の表現

──また今作は、同じテーマによる全7本の短編集として構想されていて、ロメールの連作『六つの教訓話』や『四季の物語』のような側面もありますね。

濱口:

シリーズのいいところは、作品のテーマが重なることで、一話が単なる一話でなくなり、作品同士が響き合う関係になることです。あと、始めたら最後まで完成させなければいけない重圧が生まれるのもよいことです(笑)。

──第一話の冒頭、タクシーの中で芽衣子(古川琴音)とつぐみ(玄理)がずっと恋バナをするシーンもそうですし、二話の大学教授の瀬川(渋川清彦)と生徒の奈緒(森郁月)の長い対話シーンもそうですが、本作の多くは会話で成り立っていて、そこも非常にロメール的と言えますね。

濱口:

僕はフランス語はわからないんですが、ロメールって文法的にも完全な台詞を書くらしいんです。書き言葉のような長い台詞を話すことでかえって役者自身が表現されることがあるような気がしていて、それはすごく学びました。自然と不自然の間というか、単に自然なものではないけど、誇張した不自然なものともちょっと違うというか。

──映画『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹さんの短編小説『ドライブ・マイ・カー』を主軸に、『女のいない男たち』の中の他の2つの作品のモチーフも入れて長編映画にしていますが、今作『偶然と想像』も、3つの短編作品のテーマを重ねることで、まるで1つの長編映画を観たような感覚になっていると思いました。

濱口:

短編映画といっても、ぼくの場合は一つの物語を完結するのに40分ぐらいはどうしても必要になる。結果として、一つ一つが長編に近いようなドスンとした重みが生まれたんじゃないかなと。

──確かに、どの作品もこの後どうなるんだろうと思わせる展開で、もっと長い作品にできそうですよね。

濱口:

自分も、それぞれの登場人物のその後が気になるものができたと思います。短い話だけど、そのキャラクターがどこかで生きているような感覚がある。それは役者さんたちの演技の賜物だと思います。

物事は社会規範のみでは測れない

──第一話の主人公・芽衣子は、嘘がつけないゆえに他人を傷付けてしまうタイプとして描かれてますが、監督の撮りたかったテーマとして、シリーズテーマの「偶然」の他に、自分らしく生きようとして社会と折り合いがうまくつかなくなっている人を描きたいというのがあったのでしょうか。

濱口:

そうですね。これまでも僕はそういう人を撮ってきました。物事は社会規範のみでは測れません。人が自分らしくあった時に、それが必ずしも社会の規範に合うとは限らない。その時の苦しみというのが始まりにあって、それが物語を動かしていくというのはありますね。

──第二話の中で瀬川が奈緒に言う「社会の物差しに自分を測らせることを拒んで下さい」というセリフがとても印象的だったんですが、監督自身が社会の物差しに疑問を持ってきたんだろうなと思いました。

濱口:

まあ、疑問は持ちますよね。社会の物差しだけが正しいということはないでしょう。

──そうした社会の物差しに「抵抗して下さい」という言葉は、この映画の重要なメッセージでもありますよね。

濱口:

そういうふうに響くだろうとは思いますが、それ自体が作品のメッセージであるわけではないです。あのセリフはあくまであの二人の中の関係性の中から出てきた言葉であって、物語が終わるために必要な言葉だったかなと。どの台詞もそれが作品の直接的なメッセージというのはないですが、それをどう解釈してもらっても構わないです。

「偶然」と「想像」はつながっている

──「偶然」に関して言えば、監督は、役と俳優の狭間から生まれる「何か」、撮影中に起こる偶然を待つために時間をかけるということですが、これはどういうことなんでしょう?

濱口:

偶然をコントロールすることはできないですが、偶然が起こりやすい状況はあると思うんです。例えば、毎日同じ電車に乗っていれば、違う会社の人とも会う確率は高まるというような。役者さんによい偶然が起こりやすいシチュエーションにしていくというのが大事で、そのための準備として時間が必要だし、本読みやリハーサルも入念に行います。

──『ドライブ・マイ・カー』の中でも、劇中劇の「ワーニャ伯父さん」を役者達が本読みする場面が結構長く描かれていて、濱口作品ができあがっていく過程がリアルに伝わってきました。演技をする前にひたすら本読みを繰り返していく手法は濱口監督独特の手法なんですか?

濱口:

独特というものでもなくて、演劇では伝統的な手法のようです。僕は映画監督のジャン・ルノワールのドキュメンタリーで本読みを無感情でひたすらやっているのを見て、ああこういうやり方があるのかと影響を受けました。本番で役者同士が初めて感情が入った声を聞く時に驚きがあり、そこに偶然が生まれやすい。

──もう一つのテーマである「想像」についてですが、これは制作の途中から思いついたテーマなんですね。

濱口:

「偶然」と「想像」がつながっているものだというのは、今回やってみてすごく感じました。偶然というのは想像を超えた所からやってきて、その偶然に対して想像力を使いながら、自分の人生を取り戻していくということがあるんじゃないかと。

──偶然が人生を変えるものになるかどうかは、それに気づく想像力も必要ということでしょうか。

濱口:

偶然を自分の人生の中に迎え入れるというか、自分のルーティーンの中にないことをやってみた時に、それまでとは違った人生が開けたり、なりたかった自分に近づけたりすることがあるかもしれない。もちろんこれはフィクションですが、もしかしたらこんなことがあるかもしれない、そういう可能性を信じることができたらいいなと思っています。

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