18世帯、全員が「大水さん」 呼び掛けると全員「はーい」 新上五島・大水地区

 「大水さーん!」。そう呼び掛けると、全員が「はーい」と返事をする。長崎県新上五島町曽根郷大水地区に暮らす18世帯33人は、全員が大水姓。住民はお互いに下の名前で呼び合う。

地区長(後列左から3人目)をはじめ住民の大水さんたち=新上五島町

 地区のシンボルである大水教会と住宅以外、建物は何もない。決して便利とは言えない。でも、現代人が忘れかけている「何か」がここにはある。
 大水地区は島の北部に位置し、周辺一帯は「北魚目の文化的景観」に選定されている。県道から林道に入り、さらに狭い急坂を2キロほど上った山あい。標高は180メートル前後。わずかな平地に大水教会が立つ。教会を中心に段々畑が広がり、山に張り付くように家々が点在。遠くに濃紺の海が見渡せる。
 急峻(きゅうしゅん)な山あいで住民たちが「生」を営み続けてきたのは、潜伏キリシタンの祖先が命懸けで切り開いた大切な場所であるからにほかならない。ここは敬虔(けいけん)なクリスチャンの集落なのだ。

 
 ■18世帯33人 信仰守り継ぐ

 18世帯33人の大水さんが暮らす新上五島町曽根郷の大水地区。
 仲知カトリック教会(同町)の「仲知小教区史」によると、禁教時代の1830年ごろ、大水安五郎、マシ夫妻が迫害を逃れて外海地区から移住し、開墾したのが大水地区の始まりという。ほどなくして別の数世帯も移り住んだ。
 外界から遮断された地理的状況などが信仰を守るのに適していたとみられる。81年、最初の大水教会が建てられた。現在の聖堂は1985年に建て直されたものだ。

明美さん(左から3人目)の「先上げ」で「十字架の道行きの祈り」を捧げる住民=新上五島町

 最初の移住者が「大水さん」だったから地区名も大水なのか。町によると、江戸時代に伊能忠敬が作製した地図に「大水」の地名はない。地区長の和司さん(70)は「地区内にかつて滝があり、それで全員、大水姓を名乗ったとも伝え聞いている」と話すが、経緯は判然としない。
 住民同士は仲が良い。毎月第1日曜日、全員が集まって墓地や教会周辺を掃除した後、地区の問題を話し合ったり、とりとめのない話をしたりして交流を深める。「けんかもせず笑ってばかり。さみしくないし、孤立感もないなあ」と地区長。
 最高齢は92歳のチオさん。買い物などは他の住民が手助けする。週2回の移動販売車や、町の乗り合いタクシー事業で最近は少し便利になった。最年少は県立上五島高2年の海星さん(17)。毎日、母の美穂子さん(56)が車で麓の県道まで送迎する。卒業後の進路は未定。美穂子さんは「一度は地区外の社会生活を経験した方がいいのでは」と考えている。
 漁業を営む男性が多く、女性たちは家事と農業にいそしむ。リタイアした男性も農業をする。日当たりはいいが、風は強い。農作物をイノシシに食い荒らされる被害も少なくない。

山あいに立つ大水教会と点在する家々=新上五島町

 ■厳しい環境下 優しく、明るく

 「住むのは大変そうだな…」と感じながらも、取材で集まってくれた住民たちに地区の魅力を尋ねた。すると、口々に「空気がいい」「水がおいしい」「何もないところがいい」と返ってきた。
 いくつか疑問が湧いた。郵便物などの誤配は? 「たまにある。あったら自分たちで届け直す」。教会以外、目印になるものが何一つない。来訪者に目的の家までの道を尋ねられたら? 「『教会から○軒目の家』と説明するが、連れていく方が早い」。地区長は「番地も同じ家が多いんじゃないのかな」と言った。
 多い時は38世帯が暮らしたが、だんだん減ってきた。船舶の機関長を務める恵さん(70)は「地区が存続できるのかが心配。名字が違う人が移住してくれても大歓迎するのだが」と顔を曇らせた。住民の多くが同じ不安を抱えているが、「ここが大好きで離れたくない」と口をそろえる。
 自然は美しければ美しいほど、人間に厳しい。ただ、そんな環境でも、たくましく生きる人々はこんなにも優しく、明るくなれるのだ-。取材しながら記者の胸にそんな思いが湧き上がる。大水さんたちに会いたくて、変わらぬ景色に触れたくて、きっとまた、この場所を訪れるだろう。


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