ゲストに鎌田東二!赤坂真理×宗形真紀子「過ちと救い ~過ちからさらなる過ちへ、過ちから救いへ」開催!

赤坂真理×宗形真紀子【ゲスト/鎌田東二】「過ちと救い ~過ちからさらなる過ちへ、過ちから救いへ」が2021年12月21日(火)に開催&配信。9月に行われた宗教哲学者の鎌田東二先生をお迎えしてのスペシャルな会の続編。ぜひお見逃しなく。 人は誰しも、何らかの過ちを犯す。いや、過ちを犯しながら生きているのが人間という生き物なのかもしれない。たとえ過ちに、うすうす気づいたとしても、これまでの「かけた努力や時間」や「捨てたもの」の大きさを思い、抜け出せないことはとても多い。宗教でも恋愛でも会社でも投資でも、いろいろなことから抜け出すことは簡単ではない。 もし、信じたものすべてを失ったとしたら、どうしたらよいのだろう?過ちをなした自分に耐えられずに、過ちに深入りしすぎて抜け出せなくなったり、さらなる過ちを犯してしまったりすることもある。過ちを犯してしまったら?過ちから、どうしたら救われるのだろう?過ちと救い、これは、探求そのものだし、回復そのものでもある。これは古来の宗教、信仰の永遠のテーマでもあり、生きる上で最も知りたいことだろう。

赤坂真理コメント

わたしは自分の本質を、意識の探求者、ととらえています。 そういうわたしにとって、オウムの人々はどこか他人事ではなかったのです。 自分はたまたまそこに行かなかった。 そして、「カルトを避ければ安全」なわけではないことも、わたしは今は知っています。 カルト=狂信は、あらゆる人間関係で起きること。 ありとあらゆる失敗がそこで起きる。 依存したり、されたり、なぜか特定の人には言うなりになってしまったり、別の人には支配的になったり、暴力的になったり。 殺人にまでエスカレートすることだってある。 抜き差しならない人間関係の苦しみは、カルトとまったく同じ心性なのです。 そうでなければ、今だってなぜ、ママ友の言うなりになって自分の子どもを見殺しにする事件など、起きたりしますか? 狂信的な心性は、ごくふつうにあると知ったほうがいいです。 安全のために。 以前、わたしたちのトークを観てくださった人が、こう言いました。 「宗形さんが、自分の人生で欠けていたものを切実に、誠実に、ココロの声を聴きながらも、出会ったのが麻原であり、オウムであったこと。過ちとは、なんだろう?」 この問いをわたしは、どこまでも大事にしたいです。 何が過ちなのか。 真摯に求めることなど、一切しなければよかったのか。 誰しも、過ちと知って、選択するわけではないはず。 また、たとえ刑事罰に問われたとしても、人の心は、救済されるべきだと思う。 でなければ人間の苦しみ自体が終わらない。 そしてそれが過ちだったとさとったあとでも、人生は続く。 その人生を、どう生きればいいのか。 もし、「失敗してもいいんだよ」とあらかじめ言われていたとしたら、わたしたちはどれほどくつろげるだろうか? そしてもし、取り返しがつかなく見えるほどに失敗しても、やり直せることを示せるならば、それは人類にとって、贈り物となれるのではないか? そんなことを伝えたいと願って、毎回トークしています。 とても大事なことをしているので、ぜひ観てください。

© 有限会社ルーフトップ