「今より差別が色濃く残る中で…」 なぜ中日ドラ1は背番号「42」を迷わず選んだか?

背番号「42」を披露した中日のドラフト1位・ブライト健太【写真:小西亮】

ガーナ出身の父から教えてもらい、ブライト健太が胸打たれた存在

ずっと憧れてきた「42」を背負い、意識せずとも身が引き締まる。「この背番号の重みをしっかり感じてやっていきたい」。中日ドラフト1位のブライト健太外野手(上武大)は、17日の入団発表会見で噛み締めるように言った。他の新人が現役のNPB選手の名前を挙げる中、メジャーリーグの歴史を変えた偉人への思いを語る姿には、確かな決意と覚悟が滲んでいた。

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近代メジャーリーグ初の黒人選手として時代を切り拓いたジャッキー・ロビンソンの番号。「小さいころからすごく好きで、その方と同じ番号をつけさせていただいて光栄」と目を輝かせる。MLBでは全球団で永久欠番に。中日では今季まで助っ人のランディ・ロサリオがつけていたが、わずか1年で退団した。空き番号となって巡ってきた縁に、迷わず選んだ。

小学生のころ、ガーナ出身の父から教えてもらい、その存在を知る。中学、高校時時代に伝記映画を観て、強く胸を打たれた。「野球人としての強さ。ジャッキー・ロビンソンのような選手になりたい」。想像を絶する逆境に直面しながらも、決して屈することのなかった姿は、プレー以上に尊かった。

「今よりも差別が色濃く残る中で、人前では冷静に対応していた姿というのは、自分に足りないところですし、これから目標にしないといけないところです」

「42」は“強さ”の象徴「野球人として、人間てしても成長していきたい」

多様化が叫ばれる今の時代でも、心ない視線や言葉を浴びせる人間はわずかにいる。そんな状況を代弁するように「ハーフの子どもや、野球をしている子どもの力に少しでもなれるように」と思いを語る。ブライトにとっては、“強さ”の象徴でもある番号。「自覚と責任のある行動をとって、野球人として、人間てしても成長していきたい」と胸に刻む。

1972年にジャッキー・ロビンソンが53歳でこの世を去ってから、来年で50年。半世紀の時を経ても、22歳の青年にとっては道標であり続ける。「いつか海外からきた人(助っ人)がつけたいと言って、取られないように必死でやらないと」。少し茶目っ気ものぞかせ、偉大な功績に思いを馳せる。

中日では過去15年以上助っ人が担ってきたが、「42番といえばブライトと言ってもらえるような数字にしたい」。野球人生で初めて背負う特別な番号を、自らの代名詞に。「(自分の)名前にもありますけど、輝くというのは好きな言葉。しっかりと輝けるように」。プロの世界で、確かな足跡をつけていく。(小西亮 / Ryo Konishi)

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