『ホンダ・アコード』「もう負けは許されない」ホンダの本気が生んだ“最強”のアコード【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本ツーリングカー選手権(JTCC)を戦ったホンダ・アコードです。

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 ホンダはシビックで、グループA規定時代の全日本ツーリングカー選手権(JTC)において1987年〜1993年まで、メーカータイトル7連覇という金字塔を打ち立てた。

 しかし、1994年からJTCが主に2.0リッター4ドアセダンのニューツーリングカーによるレース『JTCC』になってから、事態は一転した。

 ベース車両こそ同じシビックだったが(JTCCではフェリオ)、車両開発を“グループAの延長”と考えていたことからグループAよりも改造範囲がはるかに広いJTCCでは、大苦戦を強いられたのだ。

 ベース車両がJTCCには適さない、シビック・フェリオだったことも災いしたことで、1994年~1995年まで未勝利……34連敗を喫してしまったのだった。

 ホンダがレースでこれ以上負けることは許されない……ホンダはこの状況を重くみて、ホンダ第2期F1活動でエンジンの開発を経験した北元徹をプロジェクトリーダーに据え、抜本的な改革をスタートした。

 北元プロジェクトリーダー主導の元、ホンダ栃木研究所内の開発体制が整えられた。JTCCを戦うチームから実戦ノウハウを持つエンジニアを開発チームに迎えたほか、ロン・トーラナックをアドバイザーとして招聘した。

 そして、この新体制で開発するシビックに変わるベース車両として選ばれたのが、ホンダ・アコードだった。ボディサイズは、大きくなるものの、車高を下げられることや車両全体の剛性や自由度の高さから、アコードが選択されたのだ。

 アコードは、図面レベルからトーラナックのさまざまな指摘を受けながら車体の開発が進められた。エンジンも北元プロジェクトリーダーの指示書によって、1995年まで使用していたH22A型エンジンと型式は同じものの、同じ部品はひとつもないほどに、“別物”として生まれ変わった。

 さらに、空力面にも力を入れ、実走比較テストを経て、開発は童夢に委託された。車体、エンジン、空力のすべてが生まれ変わり、ホンダの新生JTCCマシンのアコードが誕生。1996年に実戦デビューを果たすことになった。

 コードネーム『1X』と名付けられたアコードは、1996年の開幕ラウンドから2連勝と好調なスタートダッシュを果たす。連敗劇をストップすることに成功すると、その後も快進撃を続けて、開幕から第3ラウンドまでの6戦で、5勝という驚異の強さを発揮する。

 しかし、アコードのフロントサスペンション構造に規定違反の疑いが浮上し、急遽、その対応を迫られることになった。ホンダは、これを受けて第4ラウンドを欠場する。

 この疑いがかけられる前よりトーラナックから受けた指摘をすべて織り込み、開発を進めていたマシン『2X』を投入するとともに、これに対応。再び第5ラウンドより参戦した。

 『2X』となったアコードは、第5ラウンドの第9戦こそ落としてしまうが、それ以外は最終ラウンドまで全レースでトップチェッカーを受ける。

 最終ラウンドの第13戦と第14戦では、ライバルより車両規定違反の抗議が出されて、結果的に失格となってしまうものの、それでもジャックス・アコードを駆る服部尚貴がチャンピオンを獲得した。ランキング2位には、カストロール無限アコードの中子修がつけ、アコードはランキング1-2を独占したのだった。

 翌1997年、フロントバルクヘッドの改造範囲縮小という規定変更への対応が遅れたため、開幕ラウンドは特認車両として参戦したアコード(開幕ラウンドは結局中止となる)。しかし、第2ラウンドより前述のバルクヘッド規定対応と1800mmまでのボディ拡幅が認められたことを受けて、フロントのトレッドのみを広げた『2.5X』を登場させた。

 この『2.5X』というのは暫定仕様で、シーズン中にリヤのトレッドも広げた『3X』がデビュー。『3X』は、空力デザインも見直されたほか、エンジンも公称で310psを発揮するスペックで、「市販車のブロックを持つF1エンジン」と称されるほどのエンジンとなっていた。

 『2.5X』と『3X』で戦った1997年は全8ラウンド、16戦で8勝をマーク。最終的には、カストロール無限アコードの中子がドライバーズタイトルを獲得するに至った。

 こうして負け続きから一気に“最強”へとのし上がったホンダ。しかし、1997年限りでホンダはJTCCからの撤退を表明。“最強”のアコードは、わずか2シーズン限りでその役目を終えた。そして、アコード旋風が去った後、JTCC自体も終焉へと向かっていくのだった。

1996年シーズンを戦ったPIAAアコードVTEC。ドライバーは黒澤琢弥。
中子修のドライブで1997年のチャンピオンとなったカストロール無限アコード。
1996年王者の服部尚貴は、1997年に渡米しインディライツに参戦していたためJTCCにはエントリーしていなかったが、最終ラウンドのインターTECで助っ人として参戦。マシンはインディライツとおなじ『KOOL』グリーンカラーに彩られた。

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