鳴滝塾は「私のヴィラ」 シーボルト自筆資料 西洋医学、科学の情報発信地

新たに見つかったシーボルトの自筆資料。「私のヴィラ(鳴滝)」を意味する「meiner Villa(Narutaki)」と書かれていた

 長崎純心大客員教授の宮坂正英さんが発見したシーボルトの自筆資料には、「鳴滝塾」について「私のヴィラ(鳴滝)」などと記されていた。「ヴィラ」はドイツ語で「館」「別荘」を意味する。長崎の歴史の中で鳴滝塾という名称はよく知られているが、どのような施設だったのか、実態はほとんど謎に包まれていた。
 鳴滝塾はシーボルト来日翌年の1824年、長崎郊外の長崎村中川郷(現長崎市鳴滝2丁目)に開設したとされる。オランダ通詞の別荘をシーボルトが日本人名義で購入したという。
 そもそも鳴滝塾という名称は明治以降のもので、シーボルトが門人に指導していた当時は使われていなかった可能性が高い。門人の高野長英は手紙で「和蘭陀シーポルト塾」と表現し、同じく門人の伊東昇迪の日記では単に「鳴滝」としか書かれていない。
 開設の目的は、昇迪が「療治製薬等ノ所」と記しているが、出島では育たない植物の栽培も大きな目的だった。普段出島にいるシーボルトは頻繁に鳴滝を訪れることはできないため、門人が住み込みで世話をしていた。59年のシーボルト2回目の来日の際にはシーボルト自身も住んでいた。
 今回見つかった資料には、シーボルトと門人の関係も記されていた。「週に数回私は彼らのために医学と自然科学分野の講義を行い、彼らとともに長崎市中の病人の往診をし、彼らに案内されて長崎近郊まで小調査旅行を行った。選抜された少数の門人たちは緊密な関係だったので、私の口頭での授業や教育を受けた」
 門人については、呉秀三の代表的な評伝「シーボルト先生 其生涯及び功業」に53人の名前が挙げられている。一方、今回の資料ではシーボルト自身が「私の門人は通常10人を超えることはなかった」と記している。宮坂さんは「中心的な役割を果たしていたのは10人余りで、これらの門人は出島でシーボルトの日本に関する調査研究や医療活動の補助をしながら直接教育を受けていたことが分かった」と言う。

1860年ごろの元鳴滝塾の建物(「シーボルト先生渡来百年記念 論文集」より転載)

 またシーボルトは同資料で、門人全員が門人を持ち、その門人たちにも門人がいたとし、「これらの人たちの相互間の意思疎通と情報交換によって、私の7年間の日本滞在中に数百人の医師たちが私の学校から輩出された」「特別な機会である重要な手術の際や私のヴィラ(鳴滝)で、非常に遠隔の地からやって来た、私の全く知らない人を私の門人もしくは信奉者として紹介されるようなこともあった」とも記している。
 宮坂さんは「今回の資料により、鳴滝塾は相互教育による情報移転や知識共有の場であったと考えられる。近代西洋医学や科学の情報発信地で、鳴滝でシーボルトの医学に接した人々が私的なネットワークを形成していた」と推測している。


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