佐世保の路面電車…なぜ“幻”に? 大正時代に浮上した「敷設計画」 保証金詐欺、資金繰り失敗で頓挫

「佐世保電気軌道」の敷設が計画された大正9年の地図と計画路線(中島さん提供、一部加工)

 路面電車が走るまちといえば長崎。長崎県内では誰もがそう思っているし、その通りなのだが、実は佐世保にも路面電車を敷設する計画があったという話を耳にした。どんな計画だったのか、そしてなぜ実現しなかったのか。佐世保市民にもほとんど知られていない“幻の路面電車計画”を探った。

 「佐世保に路面電車を走らせる計画があったの知ってる?」。電車好きの知り合いに聞いてみたが、答えは「ノー」。そんな“レア”な情報を教えてくれたのは、佐世保市に住む田中伸生さん(67)。「子どものころから、なぜ佐世保に路面電車がないのかと本気で考えていた」という田中さんは、「近代地方交通の発達と市場」(1996年、日本経済評論社発行)を読んで知った。
 同書によると、大正期に全国で電気軌道が普及。佐世保は海軍鎮守府が設置されて以降、人口が増加し、20(大正9)年に路面電車の敷設計画が浮上した。
 会社名は「佐世保電気軌道」。発起人は139人で、衆院議員の富田愿之助氏や県議の山口莞氏ら佐世保を代表する政治家が名を連ねた。福岡県からの賛同者が73人と半数以上。資本金は250万円だった。
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 当初の計画は、俵町から佐世保駅を経由し早岐村(当時)まで結ぶ路線だった。現在の市役所前、三ケ町と四ケ町両アーケード内を通過する計画だったと推定される。佐世保市史によると、現在のアーケード通りは当時の幹線道路で、幅9メートルの道に自動車、乗合馬車、人力車、自転車などが行き交い、その間を人が通り抜ける状況だったらしい。
 俵町-佐世保駅間は、午前5時から深夜0時まで運行し、運賃は10銭。佐世保駅-早岐間は午前6時から午後10時までの運行で、運賃は15銭と決めていた。のちに、終点を早岐村から日宇村(当時)へと区間を短縮するなどの変更があった。
 しかし、資金面などで難航し、会社成立は何度も延期。発起人は徐々に脱退していった。さらに、発起人の一人が共謀者と架空の会社をでっち上げ、政府から認可されたように装い契約保証金をだましとる詐欺事件が発覚。有罪判決が下り、計画は瓦解(がかい)した。他にも路面電車計画は浮上したがいずれも実現しなかった。
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 なぜ、計画は頓挫したのか。佐世保史談会会長の中島眞澄さん(81)は、発起人に福岡県人が多いことに注目する。計画が浮上したのは第1次世界大戦後の時期。「多くの成り金が登場し、資金の投資先として選ばれたのでは」と分析。
 だが、同時期にはバス路線が拡大し電車と競合する可能性が出てきたことや、成り金になった人たちが次第に金銭面で行き詰まり撤退したのではと推測する。
 「子どものころ、電車は都会の代名詞のようなもので、長崎や博多、別府に電車があり、うらやましかった」という中島さん。佐世保にも電車があったらと思う一方、「道幅の狭い佐世保のまちに電車が通るなんて現実的に難しかったのではないか」とも話した。
 「近代地方交通の-」の著者、三浦忍さん(77)=大分県=とも連絡が取れた。三浦さんは長崎県立大に20年間、日本経済史専門の教授として勤務。電気軌道の計画に関する資料を国立公文書館で見つけた。「埋もれた事実を明らかにしたいとの思いで論文をまとめた。計画倒れはよくあるが、詐欺事件に発展するのはまれだ」と語った。
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 もし、長崎と佐世保に路面電車があったら-。長崎市在住の電車愛好家は「調べてみたい。夢が膨らみますね」と話した。
 佐世保市は今年、市制施行120年を迎える。佐世保に電車が通っていたら、今とは異なるまちになっていただろう。幻の計画が実現したまちの姿に想像を巡らせた。


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