「27年前、野茂英雄はMLBを大きく変えた」 メジャー公式サイトが特集

ドジャースが野茂英雄との契約を正式発表した日(1995年2月13日)から27年が経過しようとしている。1965年にジャイアンツでプレーした村上雅則を最後に、日本人選手は29年間メジャーの舞台でプレーしていなかったが、野茂がナ・リーグ新人王に輝いた1995年以降、26年間で60人以上の日本人選手が野茂のあとを追った。メジャーリーグ公式サイトのアンドリュー・サイモン記者は「現在では日本人選手のいないメジャーリーグを想像するのは難しい」と述べ、先駆者である野茂の功績を紹介している。

近鉄バファローズのエースとして活躍した野茂だが、1988年のソウル五輪や1990年の日米野球を経験したことで「メジャーリーグに挑戦したい」という気持ちを強くしていた。また、1990年の日米野球の際には、この年オールスター・ゲーム初選出を果たしたばかりのランディ・ジョンソン(当時マリナーズ)から「日本でプレーするのは時間の無駄。お前はメジャーにいるべきだ」と声を掛けられたという。

当時はポスティング制度がなく、メジャー挑戦のためには「抜け道」を使う必要があった。代理人の団野村とアーン・テレム、さらにジーン・アフターマン(現ヤンキースGM補佐)が関与したこのプロジェクトには、優秀な選手というだけでなく、世論に逆らうことや世間から非難を浴びることを恐れない人物が必要だった。そこにチャレンジしたのが野茂だった。

当時のドジャースGMであるフレッド・クレアは2020年に「ヒデオがそのチャレンジを望んでいたのは明らかだった。彼は日本での評判や実績を危険にさらすことをためらわなかった。成功するかどうかわからないが、自分を信じてすべてを賭けたんだ。だからこそ、ヒデオは真のパイオニアなんだよ。彼は自分の能力に自信を持ち、恐れを知らなかった」と語っている。

野茂たちは近鉄に対して高額な6年契約を要求し、狙い通りに近鉄から「任意引退」を引き出した。野村は「日本球界を破壊する行為だ」と殺害予告を受けたこともあったという。また、野茂は日本のマスコミに叩かれ、父親ともしばらく口をきかない時期があったようだ。野村は「私は多くの友人を失った。それはヒデオも同じだった」と当時のことを振り返っている。

その後、野茂はメジャーで「トルネード旋風」を巻き起こすことになる。新人ながらオールスター・ゲームの先発のマウンドに立ち、ナ・リーグ新人王にも輝いた。ストライキ明けのメジャーの人気復活に一役買い、「NOMOマニア」という言葉が生まれるほど日米で人気を集めた。もし野茂が「抜け道」にチャレンジしなかったら、もし野茂が「トルネード旋風」を巻き起こしていなかったら、現在まで続く日本人選手のメジャー挑戦の流れは生まれていなかったかもしれない。

前田健太(ツインズ)は2018年に「(野茂は)間違いなく日本人選手がメジャーへ挑戦するための道を作ってくれた。そういう意味で、僕を含めた全員に多大な影響を与えていると思う」と語った。サイモン記者は「もしアメリカ野球殿堂が歴史に大きな影響を与えた先駆者のための部門を開設するのであれば、野茂は間違いなく選ばれるだろう」と記している。

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