カリーパンでおなじみ「中村屋」の美術館で芸術との関わりを片桐仁が紐解く

TOKYO MX(地上波9ch)のアート番組「わたしの芸術劇場」(毎週土曜日 11:30~)。この番組は多摩美術大学卒で芸術家としても活躍する俳優・片桐仁が、美術館を“アートを体験できる劇場”と捉え、独自の視点から作品の楽しみ方を紹介します。11月27日(土)の放送では、「中村屋サロン美術館」に伺いました。

◆新宿中村屋創業者が支援…若き芸術家が集まった"中村屋サロン”

今回の舞台は、東京・新宿にある中村屋サロン美術館。ここは、お菓子やカリーパンで有名な新宿中村屋が運営している美術館。新宿中村屋の建物が2014年にリニューアルしたことに伴い開館しました。

"中村屋美術館”ではなく、"中村屋サロン美術館”と名付けられた理由は、中村屋には芸術家が集まってきた歴史があり、"中村屋サロン”なる言葉があるから。創業者である相馬愛蔵・黒光夫妻は若き芸術家を支援。多くの画家や文人、演劇人が出入りし、その様子がヨーロッパのサロンに例えられました。

そんなサロンに集い、日本近代美術の発展に影響を与えた人々の作品を多数所蔵しています。なかでも今回は中村屋サロンを語る上で欠かすことのできない荻原守衛(碌山)と中村彝の人生を紐解きながら、その作品の数々を鑑賞します。

◆碌山を中心に生まれた芸術家たちのトキワ荘

同館の学芸員、太田美喜子さん案内のもと、まず目にしたのは明治期に活躍した彫刻家、荻原守衛(碌山)の「女」(原型:1910年、鋳造:1978年)。

ロダンの「考える人」を見て彫刻家を目指し、自らを"碌山(ろくざん)”と名乗った荻原は、中村屋サロン誕生のきっかけになった人物です。1908(明治41)年、留学先のパリから帰国した荻原は、創業者の相馬夫妻と同郷だったことから家族ぐるみの付き合いが始まり、彼を中心に中村屋に芸術家が集まり始めました。

その逸話に「人を引き寄せるタイプの方だったんですね」と片桐は感心しつつ、「中村屋サロンは碌山を慕って芸術家が集まってきた、いわゆるアーティスト界の『トキワ荘』みたいな感じで、碌山さんは手塚治虫ですね。全てのきっかけになった人」と荻原に思いを馳せます。

荻原が中村屋に通っていた背景には、相馬黒光への恋心があるとか。この「女」のモデルは明治末期~大正時代の人気モデル・岡田みどりですが、「黒光の顔に似ている」と言う人も多く、荻原の心中には黒光の面影があったんだと思うと太田さん。自分を支援してくれる恩人の妻に叶わぬ思いを寄せてしまった荻原は、これが最後の作品となり30歳という若さで亡くなってしまいます。

続いては高村光太郎の油絵「自画像」(1913年)。この作品を前に「高村光太郎も中村屋さんのサロンに来ていたんですね! 彫刻家という印象がありますが、こうした油絵も描いていたんですね!」と驚く片桐。

そして、ここで片桐にはある疑問が。それは、なぜ"中村屋”という名前なのか。その理由は創業時にあり、本郷でパン屋を始める際、東大正門前のパン屋を居抜きで買い取ったところ、そのお店の名前が"中村屋”だったから。当時、とても繁盛しており、お客さんも数多くついていたので名前を変えずにそのまま使ったのが由来です。

◆恩人の娘と恋に落ちるも…ひとつの作品が大きな溝に

荻原亡き後、中村屋サロンの中心人物となるのが大正期の洋画家、中村彝(つね)。彼は若くして家族を失い、天涯孤独の身に。一時は軍人を志すも結核を病み、その道を諦め、画家を目指します。彝が中村屋に転がりこんだのはその頃でした。

そんな彝は自画像を数多く描き、その1枚が「麦藁帽子の自画像」(1911年)。時にレンブラントのような自画像も描いていたそうですが、これは印象派に近いような作品です。

さらには、相馬夫妻の長女・俊子もたくさん描いていました。そのひとつが「少女」(1914年)で、これは文展に入賞。当時、彝は26歳、俊子は15歳。彝は俊子をモデルとした作品を40点ぐらい残しており、それを聞いた片桐は「そんなに! (中村彝は俊子が)相当好きですね。描けば描くほど好きですね」と推察。

しかも、そのなかにはヌードもあり、当時おそらく2人は互いに愛し合い、彝は俊子と結婚したいと願っていたそう。そして、そのヌード作品「少女裸像」(1914年)を東京大正博覧会に出品し、彝は高い評価を獲得しますが、親としては15歳の娘がヌードになったことに難色を示し、彝と相馬夫妻の間に大きな溝が。片桐は相馬夫妻の気持ちを慮りつつ、「出会うべくして出会った2人だけど、うまくいかなかったんですね……」と彝と俊子に思いを巡らせます。

この頃、彝は中村屋で創作に没頭し、さまざまな西洋画を生み出します。そのひとつが「牛乳瓶のある静物」(1912年)。これはピカソやジョルジュ・ブラックを祖とする"キュビスム”を意識して描かれたもので、形に拘って色彩は一切排除。

作品を前に、片桐は「今までのものと比べると色味がかなり少ない」とその印象を吐露。当時、多くの画家は芸術の都・パリを目指していましたが、体が弱かった彝は海外へは行けず、その分、雑誌やカタログなどで勉強。さまざまな芸術運動を熟知していたと言われています。

さらに、「花」(制作年不詳)になると彝が実験していた様子が伺えます。この作品はあまり詳しいことはわかっていませんが、片桐は「すごく気になりますよね。花よりも先になんで(背景が)水玉なんだろうって目に入ってきたり」、「構図も独特。上も切れているし、下も切れているし、すごくクローズアップしているけど、見えてくるのは赤の水玉」と興味を示します。

そして、「セザンヌ感がすごいですね!」と片桐が圧倒されていたのは、「花と果実」(1917年頃)。彝は多くの作品を生み出しますが、ヌード作品が生んだ亀裂は大きく、彼はその後、中村屋を去ることになります。

その後、俊子はインドの革命家のラス・ビハリ・ボースと結婚。その事実に片桐は「革命家と結婚したんですか!?」と驚きを隠せません。当時、中村屋は日英同盟の影響で国外退去命令が出ていたボースを匿い、それが縁で2人は結婚。その際、ボースは日本になかったインドカリーの作り方を伝授し、それがいまやカリーの中村屋と言われるほどの看板メニューとなりました。

一方、彝は伊豆大島に渡り、結核を療養。28歳で再び東京に戻ると、中村屋のあった新宿から程近い下落合に自身のアトリエを構えます。

◆荻原守衛(碌山)と中村彝、叶わぬ恋に翻弄された2人

片桐は中村屋サロン美術館を飛び出し、彝の人生を辿るべくアトリエの跡地「新宿区立中村彝アトリエ記念館」へ。

学芸員の後藤理加さんによると、彝が亡くなった後、友人たちがこのアトリエを残そうと保全したそうで、そこには彝の写真や自画像とともに、友人の彫刻家が作ったというデスマスクのレプリカも。

彝は1924(大正13)年、結核で息を引き取ります。37年の生涯でした。相馬愛蔵・黒光夫妻の好意によって若き芸術家たちの交流の場となった中村屋サロンですが、そこで才能が花開いた荻原と彝は、ともに叶わぬ恋に翻弄されながらその思いを作品へと注入。片桐は「結核に侵されながらも素晴らしい絵を描いた中村彝、そして俊子さんとの儚い恋の話、素晴らしい!」と称賛しつつ、運命に翻弄された若き芸術家たちに拍手を贈っていました。

◆今日のアンコールは、彝の寝室兼居間

「今日のアンコール」は、中村彝アトリエ記念館の展示作品のなかで、今回のストーリーに入らなかったものからどうしても見てもらいたい作品を紹介。片桐が選んだのは、アトリエと扉ひとつ隔てたところにある寝室兼居間です。

片桐は「庭が見える。すごくいい感じですよね」、「庭とアトリエに挟まれた、ここの感じがすごくいい」とその景観に見惚れていましたが、体調が優れないときは寝てばかりの彝にとっては、この窓からの景色が全て。片桐もその風景に感動します。

最後は、中村屋サロン美術館ではミュージアムショップへ。俊子のクリアファイル、絵ハガキ、さらにはメモ帳などもあるなか、片桐が気になったのは「一筆箋」。さらには、荻原の「女」を模した「女えんぴつ」にも興味津々。「数は決して多くないが、インパクトがありますね」と個性豊かな商品の数々を楽しんでいました。

※開館状況は、中村屋サロン美術館の公式サイトでご確認ください。

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