過酷な米留学、一流の文化に触れ ピアニスト・大塚和子さんの足跡<下> 「最後まで弾きたい」

和子さんの思い出を語る長男哲さん(右)と妻裕子さん=長崎市ダイヤランド4丁目

 昨夏死去した長崎市のピアニスト大塚和子さん=享年(92)=は2009年、80年の人生を振り返る手記をしたためた。長男哲さん(62)はその後、和子さんから「目を通して」と1冊のファイルを受け取る。敬虔(けいけん)なプロテスタントの和子さんは、自らの葬儀の進行やBGM、花の種類などを細かく決めていたのだ。その中に手記もあった。
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 1945年。16歳だった和子さんは長崎原爆で父を失い、終戦を迎えた。母ミツさんは親戚が営む病院で働いたが、7人きょうだいを養うのは大変。和子さんは東京音楽学校(現東京芸術大)への進学を諦め、長崎市の活水女子専門学校(旧活水女子短大の前身)音楽科に進んだ。
 学費は自分で稼ぐしかない。長崎に駐留する米軍将校たちが開くダンスパーティーで、ピアノ伴奏のアルバイトを始めた。毎週末通った先は、放射能の人体影響を調べる米国の研究機関、原爆傷害調査委員会(ABCC)の建物だった。

 〈1回500円くらいかな? 学費、生活費、お小遣いは十分まかなえる。おまけにチョコレートやクッキー、キャンディーなどを毎回どっさりもらって帰るので、弟妹たちが大喜び。次々に新しい曲を初見で弾かなくてはならないので譜読みの速さがきたえられた〉

 在学中、外国人教師から長崎銀屋町教会でオルガンを弾くよう勧められ、礼拝の伴奏などを担当。80歳まで続けるライフワークとなった。卒業後には母校の音楽教師となり、中学生クラスを受け持った。
 51年には洗礼を受け、同年冬から米国への音楽留学が決まった。民間の飛行機はなく、横浜から貨物船に乗り込んだ。アリューシャン列島近くを進む2週間の航行。激しい船酔いで食べ物が喉を通らず、体重が10キロ減る過酷な船旅だった。
 サンフランシスコで鉄道に乗り換え、米中西部のオハイオ州にたどり着いた。その6年前の終戦までは米英文化を排除する「英語廃止時代」の日本を生きた和子さん。親切なホストファミリー宅で1カ月半過ごし、言葉や文化を受け入れていった。
 その後ニューヨークへ向かい、本格的な留学生活が始まる。ピアノの個人レッスンを受けたり、コロンビア大学の講義を受けたり。生活費と学費は、皿洗いや清掃など多くのバイトを掛け持ちして稼いだ。

 〈仕事が途切れると3日間くらい水とパン一切れ〉

 〈先生のお住まいの筋向かいには、かの有名なカーネギーホール!〉

 〈オペラハウスの野外コンサートがあり入場料なしで「カルメン」を観賞〉

 手記には困窮の一方、一流の文化に触れた興奮もつづられている。長崎の母にもよく手紙を送った。

和子さんが米国留学中、母ミツさんに寄せた手紙など

 2年ほどの留学を終えた和子さんは、54年4月から活水女子短大の音楽講師として働く。2年後に結婚し息子2人に恵まれ、悩みながらもピアノと子育てを両立。87年には夫を交通事故で失う悲劇にも見舞われたが、99年に退職するまで勤め上げた。
 この年、和子さんの70歳の誕生日に開かれたパーティーには100人以上の教え子たちが集まった。哲さんによると、一線を退いた後も和子さんが鍵盤に触れない日はなかったという。
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 2020年7月、和子さんは脚の骨折をきっかけに入院。新型コロナ禍のため家族との面会がほとんどできないまま、入院生活が1年以上続き、昨年8月28日に息を引き取った。哲さんは和子さんから預かった“エンディングノート”に基づき、葬儀を執り行った。
 手記の最後には、こう書いてあった。

 〈最後まで好きなピアノが弾け、ある日ポンと天国のトビラが開いて一足飛びに飛び込みたい〉

 その思いを十分にかなえることはできなかった。哲さんは、和子さんが荼毘(だび)に付されてすぐに自宅へ連れて帰り、遺骨をピアノの椅子に置いたという。「ずっと弾きたかったはずなので」。哲さんは静かに目元を拭った。


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