「大統領は国を捨てた」元国防相らカブール陥落の内幕暴露 納得できないタリバン復権-安井浩美のアフガニスタン便り(3)

タリバンによる首都制圧前、カブールの訓練施設で訓練を受けるガニ政権時代の国軍兵士

 1993年の内戦からアフガニスタンを取材している私は、昨年8月の首都カブール陥落とタリバン復権について納得の行かないことが多々あった。まず、多くの州でほとんど戦闘なしに兵士らが投降し州都が続々と陥落した。そして銃声も戦闘もなく、足音さえ感じさせずに、イスラム主義組織タリバンは首都を制圧した。首都陥落前後、タリバンとガニ政権の間で何があったのか。政権最後の国防相モハマディ氏や、カタールの首都ドーハで行われていた和平交渉の内幕を知るハビバ・ソラビ和平高等評議会議員に話を聞くことができた。そこからは、復権するタリバンに恐れをなして国を捨てたガニ元大統領ら政権幹部のさもしい姿が浮かび上がった。(共同通信=安井浩美)

 第1回はこちら https://nordot.app/868396905403236352?c=39546741839462401 唯一の邦人退避から3カ月、カブールに戻って住み続けると決めた
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 ▽敵前逃亡で一気に崩壊

 ソラビ氏によると、米国とタリバンの間では秘密裏の交渉が行われていた。タリバンは(1)カブールには入城しない(2)移行政権を立ち上げる-という内容で、非公式ではあるが、両者は合意に至っていたらしい。まさに、カブールが陥落したその日、カルザイ元大統領やアブドラ和平高等評議会議長らがドーハに行き、タリバン首脳らと最終の調整に入る予定だったという。

トルコでドーハでの舞台裏を話してくれたアフガニスタンのハビバ・ソラビ和平高等評議会議員

 もちろん当時のガニ大統領は、それについても了承済みだった。ガニ氏が政権の座を退くということも双方の間で了承が得られていたが、タリバンに政権を譲ることは認めていなかった。しかしガニ氏は、モヘブ国家安全保障長官ら側近らと共に急に敵前逃亡してしまう。タリバンは虚を突いて一気に復権。あと一歩で何らかの結果が見えた和平交渉も、軍隊も国民の生活も女性の権利も、ガニ氏らの逃亡により、何もかもが崩壊してしまったのだ。

 ▽不正で勝ち取った大統領の座

 ガニ氏が勝利した2014年の大統領選挙はアフガンで行われてきた過去の選挙のご多分に漏れず、不正まみれだった。ガニ氏を勝たせるために米国はあの手この手で無理やり勝利に導いたとされる。本当の勝者は、アブドラ氏だったと選挙管理委員が断言するほどだ。

 そうまでしてガニ氏を勝たせたかった米国にはどんな思惑があったのだろう。米軍撤退後を見据えタリバンに政権を委ねる協力者としてガニ氏を米国は利用したのかもしれない。さすがに米国もアブドラ氏に悪いと思ったのか、当時のケリー国務長官がガニ氏とアブドラ氏の手を取り「挙国一致政権」という名のよく分からない政権を立ち上げてアブドラ氏に行政長官として役職を与え、権力を分割させることで一応の収束を得た。

アフガニスタンのガニ元大統領(中央)

 そして迎えた2019年の大統領選挙もガニ勝利で終わった。アブドラ候補は、タリバンとの和平協議を進める高等和平評議会トップに任命された。この後、モへブ国家安全保障長官が大統領直属の治安機関トップに任命され、悲劇の引き金となる。

 トランプ米政権下の2020年2月29日、米国とタリバンはドーハで米軍撤退に向けた和平合意文書に署名した。米軍は翌21年5月末での完全撤退を条件に、囚人となっているタリバン構成員の解放、その後タリバンとガニ政権の間で和平交渉を始めるなどというものだった。

 ▽モハマディ元国防相との再会

 タリバン復権後の昨年12月、私は日本へ一時帰国した。居住国の政権が転覆するという思いがけない出来事に遭遇し、住み慣れたアフガニスタンをスーツケース一つで自衛隊機で、それもたった一人で退避することになった。こんな経験をすることになろうとは全く想像していなかった。

 久しぶりの正月を日本で迎え、アフガンへ戻る途中にタジキスタンの首都ドゥシャンベに立ち寄った。というのもガニ政権最後の国防相だったビスミラ・モハマディ氏が滞在しているからだ。

 1990年代のアフガン内戦時、国民的英雄のアフマドシャー・マスード氏率いる旧北部同盟軍の拠点があったドゥシャンベ。約20年ぶりにドゥシャンベを訪れると、高層ビルが林立し、その変わりように驚いた。同じ約20年なのに、ドゥシャンベの街の発展ぶりは、カブールと比べ物にならないほどだ。タジク人が大部分のこの国と多民族のアフガニスタンの復興速度の違いを目の当たりにした。

 モハマディ氏とは、90年代の内戦時に北部同盟軍司令官として活躍していた時に知り会った。北部パルワン州のジャブルサラジの基地の玄関先で無線を片手に兵士らに指示を与えていた若いモハマディ氏の姿が今でも思い出される。  それ以来の顔見知りで共和国としての政権発足後も国防省に彼を訪ねたことが何度かあった。今回の首都陥落劇で、モハマディ氏さえも国民を捨て逃げてしまったのかと、とても気になっていた。私の知るモハマディ氏は、そんなことをする人ではないはずだ。

 

それでどうしても彼と話をしないと自分の中で納得できないと思い、知り合いを通し面会を申し込んだ。モハマディ氏は、メディアに姿を現しておらず、ひょっとしたら断られるのではないかと半信半疑だった。しかし、面会が可能ということで喜び勇んでウズベキスタンのタシケントから隣国タジキスタンのドゥシャンベへ空路向かった。

 

隣国タジキスタンでインタビューに応じるアフガニスタンのモハマディ元国防相

翌日、市内の住宅街にある民家の一つに来るように言われ、タクシーで向かった。大通りを少し入った閑静な住宅街。門を入ると洋館のような建物がありその2階の一室に通された。食事のできる食卓と応接セットが置かれた部屋の突き当たりの窓際に置かれた椅子に座り、お茶を飲みながら5分ほど待った。するとドアが開き、黒いジャケットにグレーのスラックス姿のモハマディ氏がにこやかに登場した。心の中でこの時点では、国民を捨てて逃げた悪者と一方的に思い込んでいた。しかし、長年の顔見知りに思わずほほ笑み、握手しながらお互いに「元気だったか」と聞き返しながら懐かしさがジワリとわいた。

▽国軍の弱体化とタリバン復権

 モハマディ氏に話を聞くと、米国とタリバンの和平合意がそもそも大きな間違いだったという。米軍撤退の約束はバイデン米新政権に引き継がれた後、5月末の撤退期限を8月末に延長したことで、タリバンはガニ政権との和平交渉のテーブルに着くことを無視し、武力での政権奪還を狙い始める。

 21年7月、7年間務めた国防相の役職から離れ引退状態だったモハマディ氏は突然内務相に承認された後、病気療養中で国外にいたハレド国防相に代わりガニ大統領から急きょ国防相に任命し直された。首都陥落40日前、国内約330地区のうち100地区が既にタリバンに制圧された状況下での再就任だった。

 ガニ政権発足後、ベテラン司令官クラスの国軍兵士らが除隊年齢を9歳も引き下げ52歳で退役させられていた。国軍を若返らせるということで経験のない多くの大統領警護担当兵士が司令官に就いている実情に驚いた。経験不足の司令官の下で多くの国軍兵士が殉死していた。兵士の士気は下がる一方で、任務を無視し、逃げ出す兵士が後を絶たない状況だった。

 タリバン復権前、アフガニスタン北部パルワン州の渓谷でタリバンへ向けロケット弾を発射する国軍兵士ら

 国防省就任数日後、大統領府内にもう一つの国防省が存在していることに気づいた。大臣は自分のはずなのに、国防に関する決定権は全てモへブ国家安全保障長官の手中にあった。経験のない司令官の交代も認められず、国防に関し何一つ口出しすることもできない。そんな状況を理解していながら、ガニ氏もモヘブ氏もタリバンに制圧されていく祖国のために動く気配はなかった。口では最後の最後まで戦うと演説していたが、実際はそのような気持ちは見えなかったとモハマディ氏は当時を振り返る。

 ▽国を捨て逃げたガニ大統領

 タリバンは8月14日、カブールの隣接州ロガールやワルダクを制圧した。政府の治安関係者は皆職場から逃げ出していた。首都が陥落した15日午前10時、モハマディ国防相はガニ大統領との電話で緊急会議を提案する。ガニ氏は「モへブに伝える」と言って電話を切った。正午ごろ、大統領警護班が国防省に来たので会議のために大統領が来ると思い待っていた。150人近くの警護班がヘリポートに集まっていた。

 1時間後、警護班は大統領府へと戻って行った。午後2時ごろ、常駐しているヘリ3機が大統領府から飛び立つのが見えた。10分後カルザイ元大統領から電話で「ガニが逃亡した」と告げられた。続けてカルザイ氏は「ガニが国を滅ぼすと言っただろ」と電話口で声を荒らげた。

アフガニスタンのカルザイ元大統領

 150人の警護班を国防省に送ったのは、逃亡を邪魔されないため、シンパ以外の警護班を遠ざけたと後に知ることになった。ヘリはウズベキスタン・テルメズの空港に着陸し、その後アラブ首長国連邦(UAE)の旅客機でアブダビへと向かった。  

 ▽パシュトゥン至上主義者の大きな過ち

 30万人とされた国軍を持つガニ政権がほぼ全土をタリバンに制圧され、軍の崩壊を招いた原因はガニ氏だ。就任以降、政権をガニ氏と同じ多数派パシュトゥン人で構成されるタリバンに引き渡すことを企図したと取られてもおかしくない政策が進められた。

 タリバンが装備、技術、士気どれを取っても劣る国軍に戦いを挑んでも勝ち目がないのは一目瞭然だった。ガニ氏とモへブ氏は戦闘激化の中、経験不足の司令官を前線に送り、退役年齢を早め、経験豊かな兵士を排除した。その結果多くの殉死者を出し、国軍は士気や統率力を失った。

 陥落1週間前には、モへブ氏が国軍指揮官として働き、兵士らにタリバンに投降するように指令を出していた。モハマディ氏がガニ氏に直訴しても「大丈夫」と言うだけで、何も行動を起こさなかった。

 タリバンと米国との和平合意も戦況に大いに影響を与えた。合意文書に従って釈放された捕虜はタリバンに再び合流。空爆による米軍の支援もなくなり、ろくな戦闘機を持たず、機材整備もままならない空軍にできることは限られていた。国軍兵士の士気低下や逃亡により、戦況はタリバン優位に一気に傾いた。

 首都陥落前日、モハマディ氏はカブールにある国軍基地に足を運び驚いた。3部隊5千人以上所属していた兵士のうち、残っていたのはたった9人だった。相次ぐ兵士の投降でほとんどの州で戦闘は終わっており、アフガンでパシュトゥン人の次に多いタジク人の故マスード氏やモハマディ氏の故郷であるパンジシール州以外のほぼ全てをタリバンは既に掌握していた。

アフガニスタン首都カブール制圧前のタリバンの攻勢

 タリバンが首都に迫った時、ガニ氏は米国が空爆で支援してくれると思っていたはずだ。だが、支援はなく、米国に見捨てられたと感じたガニ氏は「国を捨て国民を犠牲にして逃亡した」とモハマディ氏は言う。

 ▽祖国の崩壊を目の当たりに

 国防相に就任した時点でここまで状況が悪化しているとは思いもしなかった。それでも何とか戦況の立て直しを考えたが、大統領自身が国軍弱体化を進める中でどうすることもできなかった。辞任も考えたが思いとどまり最後まで状況を見届けようと決めた。クーデターも考えたが、自身に味方する兵士も全て失った状況では何もできなかった。

 8月15日夕方4時ごろまで国防省にいたが、タリバンが国防省に迫っていたこともあり、部下数人と空港に向かった。混乱した空港には故マスード氏の息子であるアフマド・マスード氏もいた。話し合ってパンジシール州へ避難することになり、1機だけあったヘリでまずアフマド・マスード氏を送り、その後戻ったヘリで自身もパンジシールへ行く予定だった。しかし、ヘリは戻らない。そのまま混乱した空港でやきもきしていると、アラブ首長国連邦(UAE)の軍人の手はずで軍用機に乗れることになり、UAEに向け離陸。深夜0時になっていた。  

 ガニ政権国防省の統計によると、国軍が発足した20年前からの殉職者は計約3万3千人。うち19年から21年だけで1万2609人に上る。米軍撤退期限発表後はさらにひどく、21年3月から8月15日の首都陥落までに約6千人が死亡した。政権末期の混乱で、どれほどの孤児や寡婦が生み出されたか計り知れない。

 ガニ氏の行動は、古来続くアフガニスタン固有の民族優先主義を浮かび上がらせた。最後の40日間を国防相として務めたモハマディ氏は、タリバンが国民の立場に立ち国際社会の求める国造りを進めるまで抵抗運動を続けるつもりだ。

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