頭がおかしい最高のヒーロー映画 『THE BATMAN-ザ・バットマン-』レビュー 【映画レビュアー・茶一郎】

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」 2022年3月11日全国公開 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & © DC

はじめに

『THE BATMAN-ザ・バットマン-』(以下『THE BATMAN』)、皆様ご覧になりましたでしょうか。明らかに最近のアメコミ映画のトーンから外れた、異常で最恐で最高な一本。ここまで原作純度が高い尖った映画を多くの動員が必要な大作(製作費2億ドル)でやって良いのかと戸惑いながらも、歓喜しております。前回の動画では、この『THE BATMAN』から一歩引いて、本作が映画的にどういった文脈に位置するかとそのジャンルをまとめました。今回は本丸『THE BATMAN』のレビューでございます。皆さんからは見えないと思いますが、マイクの前、独りブルースの病んだ目でお送りしていきます。お願い致します。

あらすじ

麻薬王マローニが検挙され平穏が訪れたと思われていたゴッサム・シティ。あるハロウィンの夜、現役市長が殺害されます。犯人を名乗るリドラーはその殺害現場に「嘘はたくさんだ」と犯行声明、そして「バットマンへ」と書かれた謎の暗号を残しました。主人公ブルース・ウェインがバットマンになって2年目のハロウィンの夜。「嘘とは何か?」「リドラーの目的とは?」リドラーに呼ばれたバットマンの捜査・暗号解読が始まる『THE BATMAN』でございます。

作品全体の感想

「10月31日木曜日。雨が降っていても通りには人が溢れている」「2年の夜の生活が俺を夜行性の動物に変えた」「俺は復讐だ」。本作『THE BATMAN』は、原作コミックのモノローグがそのまま映画に飛び出したかのような、バットマン=ブルースの心の声から始まります。のちにその心の声はブルースがしたためているゴッサム・シティ浄化計画「ゴッサム・プロジェクト」の報告書/日記だと分かります。

この日記というのは、前回の動画で挙げました『タクシードライバー』の病んだ主人公トラヴィスが書いていたあの日記(を思わせます)。孤独な男がその閉じた己の世界を濃縮させ日記に落とし込む。『田舎司祭の日記』から始まり『タクシードライバー』、そして『ジョーカー』のネタ帳へとつながり、その病んだ孤独な男の物語が本作にたどり着きました。

冒頭から観客をバットマンの病んだ深層心理の世界にダイブさせるよう機能する、この日記モノローグ開幕。20年前に両親を殺された男が「俺は(その)復讐だ」と言って、街の暴漢たちをボコボコに殴っていく、その暴漢から助けられた人も「やめてくれ」と言いながら正義のヒーローであるはずバットマンから逃げていく。後ろで流れるマイケル・ジアッキーノによる音楽は♪ダーン・ダン・ダン♪ダーン・ダン・ダン。おおよそヒーローのテーマ曲とは思えない!(ため息)最高じゃんという、この本作『THE BATMAN』開幕でございます。

心の中の中学生が喜んでいます。自然と親指が上がりました。冒頭の通り今回の「バットマン」はヒーローアクションではありません。今回の「バットマン」は病んでいます。『THE BATMAN』はダークヒーロー・サイコノワールです。

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」 2022年3月11日全国公開 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & © DC

今回の映画化の特徴

今まで「バットマン」の単独映画、本当にたくさん作られてきました。アメコミ映画の歴史を変えた1989年のティム・バートン版が「ゴシック」。1995年のジョエル・シュマッカー版はTVシリーズのタッチを蘇らせた「ポップでクィア」。クリストファー・ノーラン監督によるダークナイト三部作は善悪の境界を見失った9.11後の現実のアメリカと金融危機を物語に反映させた「リアルでポリティカル」。と雑に今までの単独映画をまとめていくと、本作『THE BATMAN』は「ノワール/暗黒」この一言に尽きると思います。

その映像は、最近『DUNE/デューン 砂の惑星』でも暗黒の宗教画のような画が印象に残っております、撮影監督グレイグ・フレイザーによる黒・黒・黒。原作コミックの陰影の強い色調、バットマンとゴッサム・シティの黒いインクをそのまま映画にプリントしたようなノワール/暗黒が、3時間弱続きます。こんなに画面が暗い暗黒の映画を、製作費2億ドル規模の映画でやって良いのかと思いましたね。この時点で一定の客層は捨てている。それでもバットマンの「黒」を描くんだと。

あまり鑑賞環境を縛ることは言いたくないんですが、本作はご自宅とか遮光性が低い環境での鑑賞はキツいかな…と。僕はドルビーシネマとIMAXとで2回見ましたが、ちょっとIMAXは逆に明るすぎる。黒がしっかり出るドルビーシネマでの上映がベストかなと思います。原作の「バットマン」というキャラクター、「ゴッサム・シティ」という街の持つ「黒」を表現するのには映画館という洞窟が必須だったのだと思い知る、この「ノワール」。

観客は冒頭のモノローグから病んだ主人公の暴走する正義の世界に入り込まされて、雨が降り続ける絶対に洗濯物の乾かない暗黒街ゴッサム・シティでの捜査劇をじーっとりと体験させられます。本作が原作コミックを再現したのはスクリーンに映るインクの黒色と赤色だけではありませんでした。バットマンというヒーローの探偵としての側面。“DCコミックスのDはディテクティブ=探偵のDだ!”と。「嘘」というマスクを被ったゴッサム・シティを影の主役とするじーっくりとした探偵劇/捜査劇/調査劇を見せていきます。

前回の動画では『ゾディアック』、そしてその元ネタとも言える『大統領の陰謀』という2作品を中心に、捜査劇である本作『THEBATMAN』をまとめました。行ったり来たり行ったり来たり、あーでもないこーでもない。このじっくりな「捜査」、それ自体がドラマの面白さで、その捜査の過程で、「大統領の陰謀」ならぬ「ゴッサムの陰謀」「ゴッサムの嘘」が明らかになる、と。2作品を代表するフィルム・ノワール/ネオ・ノワール/捜査映画が持っている面白さを、原作のバットマンの「探偵」としてのキャラクター性に、見事にブレンドしています。

僕は試写で本作を観た後のツイートで、『ゾディアック』の監督デヴィッド・フィンチャーが、原作「ロング・ハロウィーン」を映画化したみたいな作品と本作を表現しました。僕はそんなにコミックマニアではないんですが、それでも大好きな原作の「ロング・ハロウィーン」「ダークビクトリー」「バットマン:ハッシュ」。特に「ロング・ハロウィーン」の面白さが、ようやく今回、映画になってくれたという感覚が本作を観て生まれましたね。

「ロング・ハロウィーン」というのは、僕でも知っているような有名な原作で、まさしくハロウィンの夜から始まり、ゴッサム・シティで連続殺人事件が起きる、それをバットマンが捜査していくというミステリー。その捜査の過程で、さまざまな悪役とバットマンが対峙して、行ったり来たりする。同時に舞台であるゴッサム・シティの犯罪組織の陰謀も渦巻いていくというこの「ロング・ハロウィーン」。ひいては、原作のミステリーとしての面白さも見事に映画にした「ノワール」である、本作『THEBATMAN』。バットマンの映画を観ていて、「コミックを読んでいるみたいだな」と思ったのは、ティム・バートン版以来でした。

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」 2022年3月11日全国公開 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & © DC

『ダークナイト』と比較して

逆に原作をまったくご存じない方で、アクション映画もしくは最近のアメコミ映画の1作品として本作をご覧になった方は、ものすごく困惑されたんじゃないでしょうか。原作が認知されている海外で評価が高いのは分かりますが、あまり認知度が高いと言えない日本で、どう一般の観客が反応するか不安ではあります。

例えば本作は、あくまでバットマンというキャラクターで、『ヒート』のようなクライムアクションを描いた『ダークナイト』とは異なります。前回の単独映画が偉大だったので、おそらく本作『THE BATMAN』も何かと『ダークナイト』と比較されてしまうと思うんですが、その比較が無駄になるほどに今回別物です。まったく違います。いわば入口と出口が逆。

偶然にも本作『THE BATMAN』も『ダークナイト』もどちらも「ロング・ハロウィーン」を原作にしているので比べやすいですね。入り口が「バットマン」で出口が「ポリティカル・アクション映画」だったのが、ダークナイト三部作。クリストファー・ノーラン監督は、やっぱりご自身の大好きなクライムアクション、「007」を筆頭とするスパイアクションを出口と設定して、「ロング・ハロウィーン」、バットマンというキャラを映画にしたダークナイト三部作。一方の本作は、入口は前回の動画で挙げたような『ゾディアック』『セブン』ドラマ『マインドハンター』、70年代ネオ・ノワールのような往年の名作映画を想起しますが、それらはすべて「バットマン」という出口に向かって昇華されていく、「バットマン」というキャラクターを描くため、原作の魅力を映画に残すために利用されているように見えました。

ゆえに本作を、ティム・バートン版以来の最高の「バットマン」映画だなと言いたいです。最高のバットマン「映画」なのは確かに『ダークナイト』か『レゴバットマン・ザ・ムービー』かもしれませんが、最高の「バットマン」映画は本作『THEBATMAN』ではないでしょうか。正直、ここまで原作の純度を高く映画に残そうとした、この挑戦に驚きました。これも一朝一夕には成し得ない。当然過去の偉大なバットマン映画化およびアメコミ映画の上でこそ、この挑戦が成し得たんだと思います。

MCUの挑戦のおかげでクロスオーバー、マルチバースが世界的に認知され、一方でDC、バットマンは純度の高い「黒」を表現することができた、アメコミ映画の一つの到達点として、この挑戦を称えたいです。

以上が作品全体の感想ということで、もっと異常な頭のおかしい点がこの『THE BATMAN』にはあります。ここからは「『THE BATMAN』どういう映画だったのか?」具体的に見ていきます。中盤以降の展開にも言及しますので、ここからはゴッサム・シティの暗黒に触れた後に、本編ご鑑賞後にお聴きください。

!!以下は本編ご鑑賞後にお読みください!!

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」 2022年3月11日全国公開 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & © DC

主人公=ブルース・ウェインについて

2年目「イヤー・トゥー」というのが良いなぁと思いました。今回のブルース=バットマンは自警活動を始めて2年目なんですよね。まず映画の構成上、親の顔より見たブルースの両親殺害シーン。真珠のネックレスがバラバラからのバットマン誕生をスキップできるという、これは言わばMCU版「スパイダーマン」の1作目『~ホームカミング』でベンおじさん殺害をスキップしたような、「ベンおじさんスキップ作劇」としても効果的です。

本作は、オリジンではないオリジンです。加えて今回のブルースはまさしく2年目の精神性。社会人2年目、大学2年生の方には刺さるんじゃないですか。最初は葛藤しながらも誠心誠意、自警活動/ヒーロー活動をやっていたけれど、1年経っても街の腐敗、自分がいくらやっても街が浄化されない、犯罪は減らない。最初はこの業界を変えるんだと意気込んで入社したけど、会社・業界の悪い点にどんどん気づいていく、自分の無力さに気づく。ブルースは日記にこう書きます。「ゴッサム・シティ…この街は腐っていっている。俺はそれを救えないかもしれない。でもやらないければいけない」。でも仕事は辞めない。それでもやらなければいけないと。

1年働いて自分のアイデンティティと職業的責任/義務感がつながってしまっている。2年目の精神性がブルースをむしばんでいる、そんな病んだブルースを、その目を、ロバート・パティンソンが今回見事に体現しています。まず2年目「イヤー・トゥー」という設定が、個人的ツボという話。この設定がブルース=バットマンのキャラクター性を鋭くしています。バットマン=ブルース・ウェインは精神を病んでいるヒーローだと。

過去作、マイケル・キートンがブルース=バットマンを演じたティム・バートン版に、特に顕著でした。今までの映画版でも「この人は精神がおかしいんだ」としっかり描いてはきましたが、今回のロバート・パティンソン=ブルースは今までの比じゃないですね。両親を亡くしたトラウマと、バットマン活動で病んでいる。このダブルパンチに心をおかしくしている。単純に劇中、ブルースでいる時よりもバットマンでいる時の方が長いという異常さもあります。しかもブルースでいる時も目元にはバットマン活動の時の黒いメイクが残っていて、バットマンというアイデンティティ/自我がブルース自身を侵食していることが一目瞭然。

前回の動画でも言いました。本作『THE BATMAN』の原作の一つは、ダーウィン・クックの『バットマン:エゴ』。この原作でバットマンが立ち向かうのは、タイトルの通りバットマンとしての「エゴ」なんですね。ブルースが過去のトラウマ/恐怖と闘うというとっても精神分析的な原作ですが、その原作のエッセンスが本作『THEBATMAN』に組み込まれている。悪役を退治するのではなく、街を浄化するのではなく、バットマンという自我がただ暴走しているだけ。

先ほど名前を挙げた、本作の捜査劇的要素の元にある映画『ゾディアック』。やはり主人公が犯人探をしていく過程で精神を蝕んでいく『ゾディアック』について、監督デヴィッド・フィンチャーは「正義に執着することについての物語」と表現していますが、これがまさに本作の『THE BATMAN』にも通じますよね。「正義に執着しているだけじゃん!」という、異常なダークヒーロー映画が本作です。

また頭がおかしいなと思ったのが、悪役との鏡像関係的な描き方です。バットマンと悪役とは、常に鏡写りの存在だと。原作『キリング・ジョーク』でのバットマンとジョーカーの対比が有名ですし、これも過去の映画化、特にダークナイト三部作では、マスクを被っているバットマンと、同じくマスクもしくはメイクというマスクをした悪役が何度も何度も対比されていました。本作『THE BATMAN』では異常なほどに対比が強調されます。対比というか、ほぼバットマンと悪役がシンクロしていると言っても過言ではない。

まず映画が始まりますと、今回はバットマンの視点では始まりません。殺人事件の犯人を名乗る悪役リドラーの視点から始まります。リドラーが双眼鏡で今から殺害しようとしている市長を見ている視点から映画が始まる。この悪役の主観ショットから始まるというのも、ちょっと気持ちの悪いヒーロー映画ですが、この双眼鏡のショットも映画が進んでいくと、バットマンの視点として反復されます。同じくバットマンがある女性キャットウーマンことセリーナを尾行して、セリーナの部屋を双眼鏡で覗いているという、まったく同じアクション、ショットで繰り返される。映画始まって0秒から、バットマンと悪役が奇妙にシンクロしているんですね。

このシンクロショットは、何回も繰り返されます。気持ちの悪い映画です。最初に本作を観た時にビックリしたのが、バットマンがセリーナに捜査協力してもらう序盤の潜入捜査シーン。このシーンの直後にリドラーの3回目の殺人のシーンが挿入されますが、奇妙な編集をしていますね。モニター越しにセリーナを見るブルースの主観ショットの直後に、車の後部座席に潜んで今か今かと殺害対象を待ち伏せしているリドラーの主観に移り変わるという。本作はやや編集が重苦しい、よく言えば丁寧な編集なんですが、全体的には重い編集の映画です。が、ここだけまるでブルースとリドラーがシンクロしたような、かなり飛んだ編集をしていて、ここの編集だけはクールでしたし、気持ち悪いですね…。こんな具合に言い出したらキリがないです。

映像的にも、物語的にも、のちに明かされるキャラクターの設定的にも、すべてブルース=バットマンと悪役リドラーとが、鏡写りどころかもはやシンクロしているというこの異常な作りの『THE BATMAN』。今までの「バットマン」映画史上最も病んだブルースを際立てていると思います。

変態的なカーアクション

何より何よりみなさま。一番頭のおかしいシークエンスありましたね。言わなくてもみなさまお分かりの通り、カーチェイスシークエンスですね。あれは一体、何だったんでしょうか。初見時まったく意味が分からなくて夢かと思ったんですが、二回目見て現実でしたね。

本作『THE BATMAN』は、全体的に爽快なアクションシーンがほとんどない。アクションがあっても、例えば警察署からの脱出シーンのように、ブルースの肉体的な痛みを最終的に強調するためのものだったり、ゴッサム・シティの陰謀の泥沼を強調するためのものだったりする。この爽快なアクションがほとんどないという辺りも、大作としては異常ですね。

唯一テンションが高いアクションがこのカーチェイスなんですが、ここではですね、バットマンが狂った悪役の側になるという、主役の視点が変わるという変な語り口をするんですね。シーンとしてはブルースとゴードンがペンギンことオズを探しに行くと。ここで銃撃戦が起こるんですが、その銃撃戦のさなか、バットマンがどこかに消える。オズとその仲間が困惑する中、ブォンブォンとどこかからエンジン音が聞こえる。真っ暗闇から「で、出たー」という具合にバットモービルが登場すると。このカーチェイスにおいて、バットモービルに追いかけられるペンギン=オズの視点が軸になってスリラーになる。

やっていることこれスピルバーグの『激突!』ですよ。『激突!』という映画は、主人公が大型トラックにひたすらに追いかけられる煽り運転スリラーですが、そのトラックの運転手の顔・姿を映さないことで、まるでトラックをモンスターのように描きました。ほとんどこのカーチェイスは同じことをやっている。狂っています。『激突!』と同じく、主な視点は追いかけられるオズの視点となって、黒くて不気味な車、ブォンと鳴く車というモンスターにオズが追いかけられるというスリラーとして、カーチェイスを盛り上げているという異常さ。途中からバットモービルの運転席に座るバットマンのカットが入りますが、何ならずっと入れなくても良かったと思います。ずっとオズとバットモービルのショットのみでカーチェイスを構成したバージョンを見たかった

監督のマット・リーヴスは今回のバットモービルについて、スティーヴン・キング原作のホラー『クリスティーン』に影響を受けたと公言されています。まさしくこの『クリスティーン』でも、主人公の自我が車と精神的につながって、車が生きた動物のように人を襲うという。ある種、『THE BATMAN』において、ブルースの自我はバットモービルと一体化しているんでしょうね。むき出しになったエンジンも、どこか有機的で生き物の血管のようです。

このシークエンスは、ペンギン=オズ視点で見た『激突!』『クリスティーン』のようなシーンになっているという、頭がおかしいとしか言えないカーチェイス導入になっていて、そこからはオズのやられっぷりが素晴らしいバットマン視点では爽快、だけどオズ視点ではバットマンが超怖い、意味不明な最高のカーチェイスシークエンスになっていました。こんなカーチェイス、ヒーロー映画で見たことないですし、この本来爽快なカーチェイスシークエンスですら、ブルースの異常性を際立てるためにも機能するという、頭のおかしい最高の映画『THE BATMAN』です。

他登場人物について=アルフレッド

ブルース以外にもこの映画の登場人物はみんな、どこか心に傷を負っているのも記憶に残りました。過去の映画作品では唯一ブルースに軽口を叩ける、どこかコミカルなキャラクターだったブルースの執事のアルフレッドも、ブルースの心の病みにひきづられる形で心に大きな傷を負っている。

本作『THE BATMAN』ではブルースの父親になってブルースの心の隙間を埋めてあげたい。でもブルースに「あんたは父親じゃないだろ」「あんたはウェイン家の人間じゃないだろ」とその役割を否定されて心に傷を負っている人物でした。親になりたいけどなれない、義理の親としてのアルフレッド。「アメイジング・スパイダーマン」版のメイおばさんに似ています。このアルフレッドとブルースのドラマ、病院でのシーンもとても印象的でした。

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」 2022年3月11日全国公開 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & © DC

他登場人物について=セリーナ

最もマスクの下に傷を隠していたのは、セリーナ=キャットウーマン。今回ゾーイ・クラヴィッツが演じた最高のセリーナについては、おそらく沢山の方が褒めると思うので、多くは語りません。ゴッサム・シティの陰謀に関わっていたらしい友人(?)恋人(?)の女性を探すために、バットマンの捜査に協力をする。次第にお互いのマスクの下にある傷の存在に気付き、バットマンとキャットウーマンが心を通わせていく。

前回の動画の通り、これは映画『コールガール』の主人公と、捜査に協力をするコールガールの女性との関係を反映したとの事です。監督のマット・リーヴスは前作『猿の惑星 聖戦記』でもそうでしたが、本当にいろいろな他の作品の要素を映画に取り入れる監督です。『コールガール』の孤独な者同士の、美しくも儚い刹那的な関係性を、何度も描かれているバットマンとキャットウーマンという、お決まりのカップリングとして昇華させました。

持っている者、選択肢がある富裕層の白人であるブルースが、持たざる者、生まれた時から選択肢がない貧困層の有色人種の視点で、言葉通り、カメラ搭載コンタクトレンズという目、持っている者が持たざる者の目を通して、今まで見えていなかった都市の闇に触れていくという、「目」というモチーフが重要な映画でもありました。

「THE BATMAN-ザ・バットマン-」 2022年3月11日全国公開 配給:ワーナー・ブラザース映画 © 2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & © DC

悪役=リドラー

何より「目」と言えば、先ほど申し上げた通り、本作は悪役リドラーの目、双眼鏡を覗く視点から始まります。リドラーの目から見た嘘というマスクを被ったゴッサム・シティと、ブルースがセリーナの目を借りて見たそのゴッサム・シティとが重なり合っていくと。このリドラーも幼少期から孤児で、心に傷を負って復讐のために活動をしている人物として、ブルース=バットマンと鏡像関係を超えた、ほぼシンクロしているキャラクター設定でしたね。

すごく興味深いなと思ったのが、本作のリドラーの設定はほとんど2019年の『ジョーカー』の主人公アーサーと重なるということですよね。この『THE BATMAN』と『ジョーカー』は、どちらも70年代のニューヨークを舞台にした犯罪映画、ネオ・ノワールに影響を受けているという点がまず類似しているんですが、それ以上にこのリドラーとアーサーの設定が類似しています。当然、『THE BATMAN』の脚本執筆時期は『ジョーカー』公開より前ですので、本当に偶然だったというのが奇妙ですが。アーサーもリドラーも、親の不在と貧困に苦しみ、その救いをブルースの父トーマス・ウェインに求める。しかし裏切られて復讐、怒りに身を任せる人物になっていくという。『ジョーカー』では持たざる者アーサーが絶対に超えられない鉄格子を隔てて、持っている者・幼少期のブルースと対峙しましたが、その2回戦が本作『THE BATMAN』で、このリドラーとバットマン=ブルースで再現されているようでした。ただリドラーとバットマンの関係は、その「対峙」というより、リドラーはバットマンを、陰謀を暴く仲間として利用したというのが、この関係性の面白いあたりです。

前回の動画の、『大統領の陰謀』のパートでもお話ししました。『大統領の陰謀』では記者の主人公にヒントを出して、陰謀解明に導く謎の男ディープ・スロートという人物が出てくるんですね。闇の中からヌルッと出てくるこのディープ・スロート。陰謀の答えではなくて、そこに辿り着くためのヒントを主人公に出すという、このディープ・スロートと記者との関係性が、おそらく今回のリドラーとバットマンとの関係につながっているんでしょうね。

『大統領の陰謀』はウォーターゲート事件を題材にしたノンフィクション作品ですが、今回の『THE BATMAN』のリドラーの被害者ドン・ミッチェル市長は、ウォーターゲート事件で起訴されたジョン・ミッチェル。ギル・コルソン検事は同じく起訴されたチャールズ・コルソンと、多くの登場人物の名前がウォーターゲート事件の主要関係者の名前からおそらく取られていますので、これは小ネタの類ですが、どこか本作『THE BATMAN』は『大統領の陰謀』、実際にあった政治の腐敗=ウォーターゲート事件とつながっていって、ゴッサム・シティをただのおとぎ話の世界というだけで切り捨てられない、根っこには現実の世界の問題を観客に示すような設定を入れ込んでいます。

もう一つ、現実の世界とどうしても重ねてしまうリドラーの造形は、陰謀論・Qアノン・オルタナ右翼ですね。これもどこまで脚本も務めた監督マット・リーヴスが意識しているかは分かりませんが、多くの方がリドラーの後半の暴走・復讐に、昨年の国会議事堂襲撃事件を想起すると思います。もしくは『ダークナイト ライジング』上映中に起きてしまった痛ましい銃乱射事件。特に前者、国会議事堂を襲撃したQアノンは、アメリカ版2ちゃんねる、現5ちゃんねるの4chanで、匿名掲示板で始まって、勢力を強めて、結果、昨年の襲撃事件になってしまいましたから、今回のリドラーとリドラーが率いる軍団が匿名のSNSかチャットでつながっている、その軍団の描写は現実と重ねない方が難しいでしょう。今回の『THE BATMAN』もやはり前回のダークナイト三部作同様、現実の政治的問題を強く反映した設定が見られます。

ストレートなヒーロー譚

持たざる者としての怒り、軍団を率いて怒れる復讐者として暴走する。やはり『ジョーカー』のラストと少し重なって見えてくるリドラーのラストです。同じく復讐のためにエゴを、正義を暴走させていたバットマン=ブルースは、ここに答えてみせました。リドラーに対して、バットマンとしての一つの回答を見せる。復讐ではなく、恐怖でもなく、自分が希望になるんだと。目の前の人を一人でも多く救う。

ここで原作「バットマン:エゴ」のセリフも引用しましょう。「バットマン:エゴ」は、ブルースがバットマンという自我と自問自答をし続ける作品です。バットマンという自我がブルースにこう言います。「私たちはとうに普通の人生を失った。過去は変えられない。決して自分の手には入らない他人の幸福を守って戦うのみだ。(中略)バットマンは犯罪者を萎縮させる恐怖の象徴であると同時に、善良な市民の間では別の意味を持たなければならない。希望の象徴だ」と。

全編通じて気持ち悪いくらいシンクロして描かれるバットマンとリドラーですが、大きく2人が異なるのは子供への視線でした。最初の殺人で親を亡くして孤児になった市長の子供、バットマン=ブルースは、その親を亡くした子供に自分を重ねて、何度も何度も救おうとする。一方、リドラーは子供を無視する。リドラーは、子供の頃に聖歌隊で歌っていたアヴェ・マリアを歌い続けます。今回、劇中で3回流れるうち、1回はリドラーを演じたポール・ダノ本人が歌うシューベルトのアヴェ・マリア。イヤに耳に残るアヴェ・マリアですが、どこかこのシューベルトのアヴェ・マリアは、リドラーが聖母マリア、存在しない親に救いを求めている、「♪絶望の底から救い給う」、魂の叫びのようにも聞こえる不気味さと切なさが同居しています。

救うブルースと救われるのをただ待つリドラー。その救いの声を聞いたかのように、「じゃあ俺が救う希望の象徴になってやるよ」と、このブルース・ウェイン=バットマン。この『THE BATMAN』がじーっくりと捜査を見せるだけの映画かなと思っていたので、このラストには強く感動しました。ブルースがバットマンになるという意味のオリジンではなく、バットマンが真の意味で“バットマン”になるオリジンとして本作をまとめたという。アンチ・ヒーロー的な題材に気をてらわず、ストレートにヒーローの意義を明確に描く。僕はこのストレートさこそフィクションに大事だなと、『THE BATMAN』、見事なオリジンとして落涙しましたね。

そして自分にはどうしてもこのブルースのラストは、『ジョーカー』へのアンサーとしても見えました。孤独に怒りを暴走させるアーサー、社会福祉は打ち切られ、トーマス・ウェインには見捨てられ、救いはありませんでしたが、本作『THE BATMAN』においてブルースが希望の象徴になろうとすることで、フィクションのパワーで答えて見せた。これはすべて偶然ですが、同時代の作品として呼応しているようにも見えました。

さいごに

希望の象徴となったブルース=バットマン。でも絶対にゴッサム・シティは傷ついたままでしょう。そこにジョーカーが現れるのか。『聖なる鹿殺し』でもほとんどジョーカーのようなキャラを演じたバリー・コーガンのジョーカー、本当に楽しみです。そして次回作には「梟の法廷」も絡んでくるという。ゴッサム・シティの深い深い闇の歴史がどう絡んでくるのか。最高のやられ役だった、ペンギンのスピンオフも見たい。もっと長い時間、このゴッサム・シティに浸りたいです。

やや編集が重かったりするんですが、ここまで原作純度の高いバットマンを大きなスクリーンで見れて本当に最高でした。今、私は20代、小さい頃から多種多様なアメコミ映画に当たり前のように触れてきた自分としては、感慨深い一本。アメコミ映画としての一つの集大成、『THE BATMAN』でございました。それでは、最後までご視聴誠にありがとうございました。

本記事は、圧倒的な情報量と豊富な知識に裏打ちされた考察、流麗な語り口で人気のYouTube映画レビュアーの茶一郎さんによる動画の、公式書き起こしです。読みやすさなどを考慮し、編集部で一部変更・加筆しています。


茶一郎
最新映画を中心に映画の感想・解説動画をYouTubeに投稿している映画レビュアー

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