お好み焼き用ソースの隠し味に使われてきた中東のドライフルーツがある。ねっとりとした甘みが特徴のナツメヤシの実「デーツ」だ。かつてイラクが世界最大の生産・輸出国だったが、湾岸戦争などの長い紛争でオタフクソース(広島市)などが仕入れ元を周辺諸国や米国に変えた。イラクの首都バグダッドで、本場の地位を失ったイラクのデーツ事情を追った。(共同通信=高山裕康)
▽凋落
冬のバグダッドは、冷たい風が吹きながらも日差しは強い。2年前に米軍に暗殺されたイラン革命防衛隊の精鋭部隊ソレイマニ司令官の肖像が飾られた通りを車で抜け、チグリス川沿いを北に約30分走ると、数百本のナツメヤシの畑が現れた。
「昔は日本や米国など世界中に出荷していたが、最近はほぼ国内向け。畑もほとんど住宅地に変わってしまった」。ターバンを巻いた農家アリ・アブドラさんが振り返って話した。86歳だといい、ナツメヤシ農業の生き字引だ。
炭火でわかした紅茶を振る舞われ、茶色いデーツを口にする。日本で言うと干し柿や黒糖に似た自然な甘さがした。中東ではラマダン(断食月)の断食が終わった後の最初の食事として食べる。ジャムや菓子の材料、酒にも加工される。
収穫期は1本から約100キロを収穫できる。アブドラさんの畑は約200本あり、年20トンが得られる計算だ。イラクのナツメヤシは中東でも背が高く細長いのが特徴だが、アブドラさんはすいすい登る。
アラブ紙ナショナルや国連食糧農業機関(FAO)によると、イラクは1960年代、ナツメヤシの木が約3200万本もあり、世界最大の生産・輸出国だった。特に輸出では2位イランの約8倍でまさにデーツ大国だった。
日本で原料として食卓に入ったのは1970年代、物資不足を引き起こしたオイルショックがきっかけだった。オタフクは75年、足りなかった砂糖の代わりとしてコク深い甘みのデーツ使用を開始した。
当時の輸入先は「すべてがイラクだった」と同社は明かす。ただ、イラクは1980年代のイラン・イラク戦争、1991年の湾岸戦争、2003年開戦のイラク戦争など終わらない混乱に陥った。
農地やインフラが破壊され04年には木は900万本に激減した。紛争のたびに日本の消費者から「ソースの品切れ」を心配する声が寄せられた。オタフクは安定供給のためパキスタンやエジプトなどに仕入れ先を多角化。また消費各国は同様にイラクから離れた。
FAOによると、イラクのデーツ輸出は一時世界9位まで凋落(ちょうらく)した。
▽一進一退
ナツメヤシは古代オリエントで「生命の樹」とされてきた。紀元前9世紀の古代イラクからもナツメヤシに関するレリーフが見つかった。「イラク史の象徴」(同国農業省)といえる。
イラクの業界団体はフセイン政権崩壊後の05年から畑の復活を目指した。だがテロの頻発もあり一進一退で、20年末でも約1700万本の回復にとどまる。20年の生産は5位、輸出で3位と往年の輝きに届かない。生産トップはエジプト、輸出はアラブ首長国連邦(UAE)だ。
アブドラさんの畑があるバグダッド郊外は、ロケット弾が頻繁に着弾する中心部や、過激派組織「イスラム国」(IS)が活動するシリア国境地域と比べのどかだ。だが08年ごろは、イスラム過激派の活動地域でテロが絶えず、通りには犠牲者の首が放置されていたこともあった。
アブドラさんの農家仲間も08年ごろ過激派に殺害された。実の採取は人力で高さ20メートルほどの木に登らなければいけない。「若者は重労働を嫌がる」と孫は農家をやめたという。
イラク戦争後、隣国イランの影響力が強まったが、貿易も同じで安いデーツが大量に市中に並ぶようになった。地球温暖化でチグリス川、ユーフラテス川の水が不足し、「質が落ちた」と業界関係者は言う。
▽高級品
一方で明るい兆しもある。イラクの治安改善で農業が行いやすくなっており、イラク政府がイランなど外国産の輸入規制を実施したことで国産品が見直されている。
バグダッドには「デーツの王様」というデーツ専門店があり、市内で3店舗を展開している。古代アッシリアの王をデザインした箱で高級感をPRしているのは、さすがイラクだ。シャーブ・マリク店長(30)によると、昨年3月にローマ教皇がイラクを訪問した際、このデーツを献上した。
オタフク自体も20年3月、健康志向の高まりを背景に、日本でまだ知名度が低いデーツの実そのものの全国販売を始めている。同社には「デーツ部」という取り扱いの専門部署まである。日本でデーツを加工した焼酎もつくられている。
オタフクが取り扱うデーツの実の輸入先は現在、サウジアラビアからだという。しかしデーツ部の下平邦夫部長は「品質が良ければ将来、イラク産を再び輸入することもある」との見方を示した。
日本でのイラクの代名詞が紛争地ではなく「食卓のあのデーツの故郷」になる。そんな日が訪れることを願っている。