震災から11年、堀潤が被災地・陸前高田へ「関わり続けていないと語る言葉がない」

TOKYO MX(地上波9ch)朝の報道・情報生番組「堀潤モーニングFLAG」(毎週月~金曜7:00~)。3月9日(水)放送の「フラトピ!」のコーナーでは、東日本大震災から11年が経った“陸前高田市の今”をキャスターの堀潤が取材しました。

◆堀潤が11年ぶりに被災地・陸前高田へ

東日本大震災で大きな被害を受けた街のひとつが岩手県陸前高田市。14メートルもの津波が襲い、一瞬で街を飲み込みました。2022年3月1日の時点で震災での死者数は1,511人。行方不明者は202人で震災関連死は48人、その数は合計1,761人にのぼります。

今回堀は、そんな陸前高田市に2011年以来、久々に足を踏み入れました。当時は周囲に建物の残骸がひしめき「どこから手をつけるのか途方に暮れる現場だった」と堀。そして、改めてこの地を訪れ「立ってみると語る言葉がない。だから、もう一度知らなきゃという思いがある。あとは、あんなに報道したのに自分の記憶も薄れていると怖くなった」とも。

陸前高田市では、ここ数年で新たな建物が続々と作られています。そのひとつが震災で全壊した陸前高田市役所で、昨年5月に新庁舎が完成。そして、津波の恐ろしさを後世に伝えるべく「東日本大震災津波伝承館」も新設。そこには被災した消防車などが当時のまま展示され、津波の恐ろしさを伝えています。

藤澤副館長に話を伺うと「一番大事なことは、一人ひとりが自分の命は自分で守ること。地震が起き、津波が来るとわかったときは逃げる。11年前の一番の教訓」と強い気持ちで語ってくれました。

続いて堀が向かったのは、陸前高田復興のシンボルとも言われる場所「奇跡の一本松」。そこは本来松林でしたが、津波により消失。唯一1本だけが耐え抜き大きな話題となりました。その後、その松は枯れてしまいましたが、現在はモニュメントとして大切に残されています。

そして、その奥には「震災遺構」が。瓦解した宿泊施設が当時のまま姿で残存。こうした遺構は各地にありますが、眼前にした堀は「あまりにも非現実的な風景に思えてしまう。現実味がなくなってしまっている自分に驚愕する。生の声と合わせてどう伝えていくのかは大きな課題」と神妙な面持ちで語ります。

さらにその奥へと進み、防潮堤の内側には驚きの光景が。そこには再興せんとする松林があり、「長い時間がかかるが絶対に諦めない、絶対に取り戻すということですよね」と感慨もひとしおの堀。なお、堀が立つ防潮堤はかつて高さ6メートルほどでしたが、現在は12.5メートルに。他にも津波から町を守るためにさまざまなものが嵩上げされましたが、その最たるものが町そのものだそうです。

◆震災後も陸前高田に残る人、移住してきた人たちの声

再建が進む一方で人口は年々減り続け、3年前には2万人以下に。

そんななか、陸前高田市で生まれ育ち、現在この町唯一のパン屋で働く28歳の村上さんに話を伺います。

当時高校2年生だった彼女は震災時、学校の体育館で部活に勤しんでいました。「その日はすぐには帰れなくて、高校の隣にある小さい畳の部屋にみんなで寝泊まりして。同級生が亡くなっている、同級生のお父さん・お母さんが亡くなっているという情報は入ってきていたので、うちの親もそうなのかなと思ったけど、親が迎えに来てくれて。1週間ぐらい経ってやっと親に会えた感じで、その間はずっと連絡も取れなかった」と生々しい記憶を吐露。

村上さんの自宅は、震災で全壊。同級生が次々に地元を離れるなか、彼女は未来を諦めず、大好きな故郷で夢を叶えます。そして、「パン屋さんとして働いて、"少しでも高田の復興に携われたら”と思った。自分を見て、同年代の人たちが高田に帰りたいと思ってくれたらベスト」と地元への思いを明かします。

一方で、陸前高田市に移住してきた若者もいます。その1人が地元のNPOに所属し、古民家カフェ「IROHA」を運営する野尻さん。

移住のきっかけは大学時代に参加したNPO活動で、初めて陸前高田市を訪れた際、「みなさんすごく温かく、本当に楽しそうだった。みんなで笑って強く生きていこうという力強さを感じ、その生きざまに惚れた」と振り返ります。

地元の人たちの人柄に強い感銘を受け、移住を決めた野尻さん。その後は地元の人からさまざまな話を聞いてきたそうで、「震災当時のことも聞かせてもらった。どういう気持ちになった、どんなことがあったのか、共有しきれないと思うが、少しずつでもその気持ちを分かち合えたらと思って聞いていた」と涙ぐむ野尻さん。

さらには「この町が好きになれたことやこの町の人に出会えたことは嬉しいが、それは良くも悪くも震災がきっかけ。私たちがいることで町の方の笑顔が少しでも増えれば」と語り、今後も陸前高田のNPOに所属しながら、この町に住み続けていくそうです。

今回、堀は陸前高田市で暮らす人たちの今の声を聞き、「やはり関わり続けていないと語る言葉がないことを痛感した」と素直な思いを打ち明けます。そして、「あの日のことを知るのではなく、今を知るとあの日のことが少し想像できる。そのために今、ここに立つことは誰でもできる。ここに立ち、直接会って、話を伺い、一緒に共有する時間があって、初めて自分の気持ちのなかに言葉が浮かんでくると思った」と改めて感じ入っていました。

◆震災の記憶を受け継ぐために…

スタジオで、改めて陸前高田市の様子を顧みた堀は「記憶を風化させてはいけないということは当時のことを語り継ぐということだろうが、僕自身は各地を回り当時のことを知っているつもりだった」と言います。しかし、震災から11年が経ち、その間さまざまな問題やジレンマを抱えながらも進んできた被災地の歩みに無知だったことを今回実感したと打ち明けます。

また、震災遺構に関しても「本当に大変な試み」と憂います。なぜなら、地元でも多くの協議がなされ、残さないでほしいという声もあったから。さらに、「今、遺構を見たときに、やはり怖いなと思ったのは、当時現場を見て、多くの人の悲しみに直接触れたはずなのに、まるで映画のセットのように見えてしまうこと」と憂慮。しかし、一方で現在陸前高田市に暮らす方々と会うことで当時を思い出したそうで、「やはり人との出会いが必要。行かないとわからない。(現地に)行ってほしい。行かなきゃと思った」と訴えます。

震災時は中学生だったキャスターの田中陽南は「知った気になっていた部分はすごくあったと思う」と自省しつつ、「自分の命を守るために、知り直すことは大事だと思った」と感想を述べます。

同じく当時中学生だったインスタメディア「NO YOUTH NO JAPAN」代表の能條桃子さんは、「11年経った今、震災の話になったときに当時中学生で意外とわかっていなかったと思うことも多く、今からもう一度知っていきたいと思う気持ちがある」と話します。

そして、「最近"ホープツーリズム”という言葉もあるが、町が復興する過程のなかで規制が緩くなり、その町だからこそできるチャレンジが数多く行われているので、そうしたところにも目を向け、行ってみたいと思った」とも。

一方、これまで被災地に度々訪れているという株式会社ゲムトレ代表の小幡和輝さんは「本当にみなさんパワフルで、行くたびに元気がもらえる」と言いつつ、現地で話を聞くと多くの人が風評被害に悩んでいると指摘。「訪れる人も減ったし、ものも売れない。福島のものというだけでネガティブに思われるそうで、そうした偏見や風評をなくしていくことが僕らにまずできることだと思う」と主張します。

また、アフリカの紛争問題を研究する東大院生の阿部将貴さんは「我々の世代は(当時)小学生・中学生でほとんど現場に行ったことがない。今後、さらに下の世代は(震災を)生で触れる機会がどんどんなくなってしまうので、資料館などを若い世代に積極的に打ち出してほしい」と震災を風化させないための施策を提案。

震災の記憶を未来へと受け継いでいくことに関して能條さんは「まずはちゃんと話を聞くこと」と言い、「あとは、記憶を語り継ぐ人が今後減っていくなかでいかに制度や役割を作っていくかが、行政を含め重要。それこそ長崎・広島の記憶が語り継がれているのは語部という制度があり、修学旅行に組み込まれるなど、そうした努力があるから。(震災の記憶も)これからも続くものであってほしい」と望みます。

なお、東日本大震災津波伝承館では当時の記憶を伝える展示だけでなく、さまざまな災害の教訓を活かした命を守るための取り組みもなされているそうで、堀は「ぜひ一度、尋ねてみていただきたい」と話していました。

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<番組概要>
番組名:堀潤モーニングFLAG
放送日時:毎週月~金曜 7:00~8:00 「エムキャス」でも同時配信
キャスター:堀潤(ジャーナリスト)、田中陽南(TOKYO MX)
番組Webサイト:https://s.mxtv.jp/variety/morning_flag/
番組Twitter:@morning_flag

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