爆発の日の朝、菅首相は福島第1原発に降り立った 2011年3月11日の総理番記者の記録(後編)

2011年3月12日朝、東京電力福島第1原発視察のため、ヘリコプターから敷地内に降りる当時の菅直人首相(内閣広報室提供)

 2011年3月12日早朝。当時、総理番記者だった私は、東日本大震災による津波を受けた東京電力福島第1原発への菅直人首相の視察に同行した。午前6時14分に官邸屋上のヘリポートを離陸した陸上自衛隊のヘリコプターは、福島県の上空にさしかかろうとしていた。(共同通信=津村一史、文中の肩書は当時)

 ▽意味が分からないままノートにメモ

 白い雪に覆われた屋根だけを残し、泥水に埋もれた無数の家々が間もなく見えてきた。何百台もの車やトラックが泥につかり、上半分がぐにゃりと折れ曲がった鉄塔や、地面まで垂れ下がった電線。津波により、どこまでが元々海で、どこからが陸地だったのかまったく分からなくなっていた。土砂や木くず、流木が大量に堆積し、あちこちで白煙も上がっている。

菅首相らを乗せ被災地に向けて飛び立つヘリコプター=2011年3月12日午前6時14分、首相官邸

 午前7時4分、福島第2原発が見え始め、午前7時11分、首相を乗せた陸上自衛隊ヘリコプターは福島第1原発の敷地内に降り立った。

 ヘリの到着場所には東京電力副社長ほか3、4人が待っていた。総理番が共有して持つ災害用携帯電話も私の個人の携帯も圏外になっていた。これでは首相が福島第1原発に到着したとの速報が打てないし、逐一配信する首相動静も流すことができない。

菅首相(当時)が搭乗した自衛隊のヘリコプターから撮影した福島第1原発=2011年3月12日朝(内閣広報室提供)

 首相秘書官が衛星電話らしきものを持っていたので借りようとしたら、秘書官が「僕が電話してあげるよ」と言って、どこかに電話をかけた。「原発に着いたよ」とだけ言って切ろうとするので、慌てて、共同通信の官邸キャップに「午前7時11分に福島第1原発に到着した」と伝えるよう頼んだが、秘書官が「あのねえ、共同にねえ、7時11分に福島原発に着いたって言ってくれる?もしもし?もしもし?」と言って電話が切れた。秘書官は大丈夫だと言っているが、これでは絶対に伝わらないだろうと焦る中、一行はバスに乗り込み、建物に移動した。首相が誰かに「一番安定しているのは3号機なのか」と質問しているのが聞こえ、意味が分からないままノートにメモした。正確な時刻を記録し、首相の様子も見ながら、連絡や動静配信もしていかなければならないのに…なんの整理もつけられないまま、頭が混乱するばかりだった。

2011年3月12日朝、東京電力福島第1原発のグラウンドに到着し、バスで免震重要棟へ向かう当時の菅直人首相。右は東電副社長だった武藤栄氏(内閣広報室提供)

 ▽声を荒らげる首相

 バスを降り、建物に入ると騒がしさが首相を包んだ。廊下には足の踏み場もないほどに段ボールが置かれ、薄黄色の防護服を着た作業員たちがせわしなく行き交っている。なぜか東電副社長が入り口付近で着替えを始めた。首相はいらいらした様子で「責任者は何をやってんだよ。こんなところで何やってんだ。説明するんじゃないのか。早くしろ」と声を荒らげた。

 建物内には、うなだれて座り込んでいる人の姿も見えた。首相が人波をかき分けながら2階に上がっていくので、私も訳が分からないまま必死でついていった。2階には警察の情報司令室のような、大型モニターと機器がたくさん入った非常災害対策本部があり、こちらにも多くの人がすし詰めとなっていた。

2011年3月12日朝、東京電力福島第1原発の免震重要棟内で、東電側から説明を受ける当時の菅直人首相(左から2人目)と寺田学首相補佐官(左端)(内閣広報室提供)

 災害対策本部から少し離れた会議室のような部屋に首相は入り着席。机にはA4の1枚紙がそれぞれの席に置かれている。私も一緒に会議室に入り、その紙を1枚もらった。

 その時に気づいたのだが、そこに寺田首相補佐官や秘書官らの姿はなく、部屋の中は首相と私の2人だけだった。続いて入ってきた東電副社長に首相は「早く説明するんじゃないのか」と強い調子で迫っている。そして私は部屋から出るよう求められた。その後、はぐれていたらしい寺田補佐官らがようやく姿を見せ、池田元久経産副大臣らと部屋に入っていった。

 ▽「ここのやりとりは書くなよ」

 私は時刻をノートに記録しながら、この締め出された間を逆に利用するしかないと考え、災害対策本部に飛び込み、「つながる電話を貸してくれ」と最初に目に入った職員に頼み込んだ。最初に借りた携帯は発信ができず、2台目に借りた電話でようやく、共同通信の官邸担当につながり、原発に到着したことを伝えた。通常なら逐一流さなければならない動静がたまっていたので、それらを口頭で吹き込んでいく。その場にいた東電社員に、首相に会議室で説明を始めた人の名前や肩書、この建物名などを急ぎ確認し、もう一度電話を借り、動静を吹き込み直した。(余談だが、この電話を貸してくれた東電社員とは4年後、福島第1原発を再び訪れた際に再会した。)

 首相に説明していたのは、東電副社長であり原子力・立地本部長でもある武藤栄氏と、福島第1原発所長の吉田昌郎氏とのことだった。両氏とも、その後のさまざまな報道によって広く世に知られることとなったが、私はこの時に初めて名前を知った。東電側の説明は午前7時23分から午前7時47分の24分間行われた。

福島第1原発免震重要棟の会議室で、菅首相(左から2人目)に状況説明する吉田昌郎所長(右奥)=2011年3月12日(内閣広報室提供)

 説明を聞き終わった首相は建物を出て、再びバスに乗り、原発敷地内のヘリ待機場所に移動した。首相はバスの右前列に座ると、隣の副社長に「こっちは人間のことを考えてんだからね。早め早めにやらなきゃだめだろう」と強い調子で詰め寄った。「さっきの件は午後までには回答できるのか。判断できるのか」と言っているのも聞こえ、必死にメモを取った。私と首相の間に座っていた寺田補佐官が「この場にいるのは特別にいるんだから、ここのやりとりは書くなよ」「音録ってんのか」「原発の技術的な話は書くなよ」などと言ってくる。こちらからは「ともかく今は全て記録する」とだけ言って取材を続けた。

 ▽爆音の中での筆談

 午前7時58分、皆でヘリに乗り込んだが離陸しない。自衛官から「航空機の電子部分にエラーが出たので、しばらく出発できない」と説明があった。私は次の目的地が陸上自衛隊霞目駐屯地であることを同乗していた自衛官に教えてもらった。通常の視察同行取材であれば、元々予定されている細かなスケジュールが事前に総理番にも伝えられ準備もできるのだが、今回は何も知らされないまま出発したので、首相が誰から説明を受けていて、今どこに向かい、次に何をするのか、さっぱり分からない。その場その場で自衛官や東電社員に確認し、なんとか動静配信に必要な情報を得ていった。

2011年3月12日午前、陸上自衛隊のヘリコプターから宮城、福島県境付近の被災状況を視察する当時の菅直人首相(内閣広報室提供)

 霞目駐屯地で一行は大型輸送ヘリコプターCH47に乗り換えた。首相が沖縄で普天間視察に行ったときに使った機種で、ものすごい爆音で飛ぶので、中での取材は非常に困難だ。私は、乗り合わせた宮城県秘書広報課の職員にノートを見せながら、ずっと筆談をし、飛行場所などを教えてもらった。

 書き殴ったメモには「仙台港近くのコンビナートで大量の黒煙あがり、大きな炎。火災やむ気配なし」「コンビナートや工場群では、白い円筒形の巨大タンクが水の中で倒れてる。大きな建物がぐしゃぐしゃ」「大型タンカー横倒しで泥に埋もれ」「いたるところで黒煙、白煙。火の手。ヘリよりも煙が高く立ち上ってる。空が黒い」「水につかったまま道路をゆっくり進む車」「水没、陥没した道路多数。通行止めの道を歩く人」「陸の孤島のようになった住宅地あちこち。がれき、木くず散乱」「家の土台だけ残り、木材粉々」などと書かれていた。

 首相は防災服の上に迷彩服を羽織り、身を乗り出し、窓から厳しい表情で地上の様子を見つめていた。宮城県副知事の若生正博氏が地図を手に説明をしているが、プロペラの爆音で私には何を言っているのかまったく聞こえなかった。

 上空からの視察が行われたのは午前8時35分から午前9時14分までの39分間。宮城県仙台市、多賀城市、石巻市、東松島市、松島町、塩釜市の様子を見た。

 宮城県の上空視察が終わると、一行は再び、霞目駐屯地に戻った。官邸から乗ってきたヘリにまた乗り換えるためだ。ここでは総理番の災害用携帯がつながったため、激しいプロペラ音の中、共同通信の官邸担当に電話して、そこまでにたまっていた動静を口頭で吹き込んだ。電話を切る前にヘリが離陸したので、「午前9時17分、陸上自衛隊ヘリコプターで霞目駐屯地を出発」まで配信することができた。ヘリコプターは一路、官邸に向かった。

 ▽スーツとコートを丸ごと捨てた

 帰りの機中では大した動きは出ないだろうと思い、私はパソコンを開き、報道各社に共有するための取材メモの作成を始めた。夕刊の締め切りや昼のニュース時間が迫ってくることも考え、一刻も早く見聞きした内容を各社に伝えたほうがいいだろうと思ったからだ。

 午前10時47分、陸上自衛隊機は官邸ヘリポートに到着した。建物内に入ろうとする首相に近づき、SPにさえぎられながら、「被災地をご自身の目で実際に見ていかがでしたか」と大声で質問した。首相は立ち止まり「あらためて津波の被害が大きいと…」と言いよどみ、私から「実感した?」と聞き直すと、「実感した」と述べた。

2011年3月12日午後、首相官邸で開かれた与野党党首会談であいさつする菅首相(左端)

 私は屋上から官邸エントランスに駆け降り、報道各社に視察同行から帰ってきた旨を伝えた。さらに記者クラブへと降りてパソコンをLANケーブルにつなぎ、ヘリコプター内で作成していた取材メモを各社に一斉送信した。昼頃、次の総理番の当番に共有の災害用携帯を渡し、引き継いだ。公邸玄関前で首相動静を作り始めた2011年3月11日午前6時から、30時間以上が過ぎていた。

首相官邸で談話を発表する菅首相=2011年3月12日夜

 後から、首相が福島第1原発を視察中、既に原子炉から放射性物質が漏れ出していたことを知った。1号機の中央制御室の放射線量は通常の千倍になっていたという。寺田補佐官が携帯した線量計はヘリコプターの中で鳴り続けていたそうだ。私は着ていったスーツとコートを丸ごと捨てた。(後日、会社にコート代が出ないか聞いてみたが「出ない」とのことだった)

 そして視察が行われた3月12日の午後3時36分、1号機建屋で爆発音がして白煙が上がった。

 私が視察同行中、福島第1原発内の会議室で手に取ったA4の1枚紙はその後、どこを探しても見つからなかった。

   ×   ×   ×

 首相動静(3月12日)

 【午前】7時11分、官邸から陸上自衛隊のヘリコプターで福島県大熊町の東京電力福島第1原発。班目春樹原子力安全委員会委員長、寺田学首相補佐官同行。19分、免震重要棟。23分、東京電力副社長の武藤栄原子力・立地本部長による説明。池田元久経済産業副大臣同席。8時29分、陸自ヘリで仙台市の陸自霞目駐屯地。35分、陸自ヘリで宮城県沿岸部の被災地を視察。9時14分、同駐屯地。10時47分、官邸。11時13分、海江田万里経済産業相。36分、緊急災害対策本部および原子力災害対策本部。

 【午後】0時42分、民主党の仙谷由人代表代行、岡田克也幹事長。3時1分、与野党党首会談。4時59分、玄葉光一郎国家戦略担当相。6時44分、海江田経産相、福山哲郎官房副長官、細野豪志、寺田、芝博一各首相補佐官。49分、松本龍防災担当相加わる。53分、海江田経産相、福山副長官、細野、寺田、芝各補佐官。58分、海江田経産相、福山副長官、細野補佐官。8時10分、海江田経産相。32分、記者会見。9時34分、緊急災害対策本部および原子力災害対策本部。10時29分、玄葉国家戦略担当相、細野補佐官。45分、細野補佐官。

 (13日)

 【午前】1時2分、海江田経産相。16分、福山副長官加わる。48分、海江田経産相。

2011年3月11日の総理番記者の記録(前編)はこちら https://nordot.app/879696219066941440?c=39546741839462401

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