ウクライナ首都、戦争の不条理が凝縮された病室 共同通信記者が見た現実

4月2日、ウクライナの首都キーウの病院で取材に応じるタチアナ・セメニュクさん(左)と義母(共同)

 ロシアによる「戦争犯罪」としか定義しようのない事態が、次々と明らかになってきているウクライナ。5週間ぶりに共同通信記者が入った首都キーウ(キエフ)の中心部は不気味な静寂が巨大な街を包んでいたが、ロシア軍が一時占拠していた郊外では、凄惨という言葉では表現しきれない現実があった。(共同通信=出口朋弘)

 ▽クレジットの重み

 私は西部リビウで3月初めから、避難民の話を聞くことを中心に取材を続けてきた。だが首都行きは常に課題として頭の中にあり、可能性を探り続けていた。

 日本の報道機関では「クレジット」、米メディアでは「デートライン」と呼ばれる、記事冒頭に書かれる発信地と日付。共同通信は2009年7月下旬から、日付は記事中に書かれているとして廃止しているため、発信した場所だけとなっている。【キエフ共同】というクレジットはロシアの侵攻が始まり、同僚が現地から脱出した2月24日が最後となっていた。

 現地でしか見えない光景を自分の目と心に焼き付け、人に直接会うことでしか聞けない話を聞く。そのことの象徴であるクレジットに込める思いは国際報道に携わる記者、共同通信では外信部という部署に所属する者の間で特に強い。先達からその重要性は、私もよく聞かされてきた。

 ただし現地に行っても、地下室で避難生活を送るだけでは意味がない。現地への、そして現地での移動手段。ウクライナ語ができない私に必要な通訳、宿舎、食事―。単に訪れるだけではなく、記事を速報できる環境を整え、自分自身も、所属組織も納得して首都に出向ける情勢を待った。

 ▽急展開

 3月29日、リビウ近郊の小さな町での1日がかりの取材を終え、宿に戻ろうとしている車中で、外信部長の有田司から電話がかかってきた。同日トルコで行われた停戦協議で、ロシア側が首都周辺での軍事作戦の縮小を表明したとの連絡だった。にわかに信じられず、いったん電話を切った。

 記事のデータベースを開き、同僚が書いた記事を読んで頭に浮かんだのは「これなら、行ける」。急いで車中から、目星を付けていた宿を予約。訪問決行時には協力をと打診していた運転手、通訳の人たちに、31日から行くことになるかもしれないと伝えると、急な要望にもかかわらず、2人とも快諾してくれた。

 ロシアが言ったことを守るかどうかが焦点だったが翌30日、首都周辺は目立った攻撃もなく、静かに推移。本社からも最終的なゴーサインが出た。

 4日前に夏時間になったばかりで日の出が遅くまだ暗い中、リビウを出発。一路、東を目指した。キエフに続く幹線道路は、ウクライナとポーランドが共催した2012年のサッカー欧州選手権を機に整備された大動脈だが、時折行き交うトラックや燃料タンク車の車列が目立つ程度。予想よりはるかに順調に進んだ。

 リビウ―キエフ間の最短ルートは、500キロ強。日本だと東京―大阪間に相当する感じだ。運転手役を務めてくれたドミトロ・ブロッフさんは、平時に一切休憩なしで走った4時間半というのが「自身の過去最短記録」と話してくれた。だが今回は首都西方の激戦地を避ける迂回ルートを取ったため、結局9時間半かかった。

 ▽地雷原

 首都が近づくにつれ、道路脇の行き先表示が黒テープで隠されたり、ペンキで塗りつぶされたりしていた。侵略者に位置情報を知らせず、混乱させようとする古典的な抵抗方法だ。衛星利用測位システム(GPS)がある現代、あまり意味がないかもしれないが、前線から遠く離れたリビウとは違う緊迫感が伝わる。

行き先の表示が塗りつぶされた高速道路の標識=3月31日、ウクライナ首都キーウ(共同)

 バリケードが互い違いに置かれ、ジグザグ走行を強いられる区間をゆっくり進んでいると、両側の原っぱが掘り起こされ、木製の立て看板が刺さっているのが見えた。手書きでなにやら文字が書いてある。ブロッフさんが「地雷あり、って書いてあるよ」と教えてくれた。今は味方が間違って足を踏み入れないように設置してある立て看板を、ロシアの地上部隊が侵入してきたら引き抜く。障壁を移動して道路を完全にふさぎ、地雷原に誘導するという算段だ。

 ▽北方領土への関心

 首都に近づくと、検問所が一気に増え、渋滞も激しくなる。パスポートと、ウクライナ国防省が発行した記者証で身元確認をするだけでなく、トランク内の荷物点検も増えてきた。警戒しているのは、ロシアのスパイや工作員の侵入だ。

 ある検問所が近づいていたとき、私はリビウで買ったウクライナの地図を見ていた。検問所の兵士が、地図を見せろという。手渡すと、折りたたんでいた地図を広げて隅から隅まで点検し「おまえは、ロシア語が話せるんじゃないのか」と問い詰められた。

 大学生の時、第2外国語でロシア語を履修してはいたものの、落第ぎりぎりで単位取得した実績がある。キリル文字で書かれた文章を「読み上げる」ことはできても、意味はさっぱり分からない。自信満々で「話せませんわ」と英語で答えた。

 一方で、日本の旅券を示すと「支援をありがとう」とほほえみかけてくれたり「クリール諸島(北方領土)を取り返せよ!」と声を掛けられたりした。

 ウクライナに来て驚いたのは、取材で出会った市井の人たちの多くが老若男女を問わず、北方領土問題を知っていたことだった。私が今まで訪れたどの国の人よりも、詳しく知っていた。隣にあるロシアという大国に領土を奪われるという、同じ立場にある遠い国に関心を寄せている雰囲気がうかがえた。

 ▽最後と最初

 携帯電話の地図アプリとにらめっこしながら、首都に入った瞬間、本社に電話。まだ日本は31日夜で、朝刊の締め切りにも余裕で間に合う。道中で見聞きしたことを記した【キエフ共同】のクレジット入りの記事を送った。

 ひと安心してネットを見ていると、日本外務省が首都の呼称を、ロシア語に由来する「キエフ」からウクライナ語の読み方に基づく「キーウ」に変更するとのニュースが目に入った。「あれ、私が送った原稿、どうなるのかな」。急いで電話すると4月1日付の夕刊用の原稿から【キーウ共同】に変更するとのことだった。

 最後の【キエフ共同】と、最初の【キーウ共同】を書くという、なんとも奇妙な経験をすることになった。

ウクライナの首都キーウ中心部。車は時折行き交うが、歩行者の姿はまばらだ=3月31日(共同)

 高層アパートが立ち並ぶ郊外の住宅地では出歩く人々も多くみられたが、中心部の人影はまばら。平時には通ることができていた道路が通行止めになっていたり、検問所が数百メートルおきに出現する地域もあったりと、攻撃されていない場所でも変化が目立つ。首都で仕事をしていたが、リビウの実家に避難し、約4週間ぶりに戻って来たブロッフさんは「街の様子が一変している」と衝撃を受けていた。

 宿に荷物を置いて、通訳の女性との打ち合わせを終えても、外はまだ明るかった。ブロッフさんは長時間運転の疲れも見せず「街を案内しようか?」。座りっぱなしでコチコチになってた体をほぐすためにも、うれしい申し出だった。

 ▽漆黒の闇の首都

 初めて訪れたキーウの印象は「でかい」。中心部の歩道は、車が3台並走できるほどの幅広さ。建物の造りも文字通り「重厚長大」。でも行き交う市民の姿はまばらなため、寂しさが異様に際立つ。迷彩服に身を包み自動小銃を肩に掛けた兵士ばかりが目立ち、時折猛スピードで駆け抜ける警察車両のサイレンの音だけが大きく響いた。

 歩きながら、ブロッフさんに日本政府による呼称変更を伝えると「素晴らしい決定だ。お礼を言いたい」と感極まった様子に。空手3段で、日本語も最近学び始めたブロッフさん。首都の新しい日本語表記をメモ帳に書いて示すと、うれしそうに何度も、覚え立ての片仮名を読み上げていた。

 夜はリビウより1時間早い、午後9時から外出禁止が始まった。午後11時過ぎにふと窓の外を見ると、街灯も大半が消され、窓の明かりも見えない。一国の首都に、登山で訪れた山小屋の周辺にあるような、漆黒の闇が広がっていた。

 ▽幼稚園前の着弾

 今回のキーウ訪問は、諸事情から3泊4日で切り上げざるをえず、正味2日間の取材日程。だが急な訪問にもかかわらず、たくさんの人にじっくりとお話を聞くことができた。4月1日、1件目のインタビューを終えて次の目的地に向かっていると、窓ガラスが割れた集合住宅が増えてきた。2週間前にミサイルが着弾した現場が近いという。寄ってもらうと、思わず息をのむ光景があった。

幼稚園(中央奥)の手前にミサイルが着弾し、集合住宅の壁が崩落した現場=4月1日、ウクライナ・キーウ(共同)

 宿から北西約10キロしか離れていない、ソ連時代の古めかしい建物が立ち並ぶ住宅地。5階建てのアパートの壁が崩落し、室内が丸見えになっていた。2階の部屋に動く人影があり、男性がほうきを片手に床を掃いていた。すぐ隣は幼稚園と小学校だ。現場では1人が死亡、子供4人を含む19人が負傷して救急搬送された。

 「とても嫌な臭いの煙で、息ができなかった」。生まれてからずっとここで暮らしてきたビクトル・ディアコフさん(59)は3月18日の朝、部屋の片付けをしていた。爆発音と同時に窓が割れ、煙が吹き込んできた。苦しさに耐えかねて外に出ると、建物の端の壁一面が崩落していた。

ミサイルが近くに着弾し、壁が崩落して室内がむき出しになった集合住宅。2階には部屋の後片付けをする住民の姿が見える=4月1日、ウクライナ・キーウ(共同)

 ミサイルが落ちた場所には、住民の車のガレージやごみ回収ボックスがあった。「こんなところが攻撃されるなんて。ショックで2日間、声が出なかった」。着弾地点にできた大きな穴は既に土砂で埋められたが、ガラスや食器の破片、家具が散乱していた。

 「これでも片付けられたほうだ」と語るディアコフさんに、間抜けな質問だとは思いながら聞いてみた。「軍関係の施設、この辺にあったんですか?」。鼻で笑われた。

 幼稚園と小学校は着弾地点側に面した窓ガラスが全て割れ、ビニールや板でふさぐ応急措置が取られていた。戒厳令が出され、攻撃時はどちらも休みだった。

 キーウ市は4月2日、ロシアの侵攻開始からこれまでに154棟の集合住宅、20戸の住宅、27の幼稚園、44の学校が破壊されたと明らかにした。

 ▽不条理の凝縮

 今回の取材で、一番緊張したのは、病院への取材だった。「戦略的施設」としてリビウでは実現できていなかった。市内の総合病院に行くと、入院患者のいる病棟の雰囲気は、日本と同じ。6人部屋の病室に案内されると、部屋の中にいた皆さんの視線が、一斉に私に注がれた。

 「ドーブリ デーニ(こんにちは)」。知っている数少ないウクライナ語であいさつすると、笑顔を見せてくれる人もいて、少し気持ちがほどけた。

 3月17日、キーウの北約35キロ、コザロビチの自宅近くにミサイルが着弾したと話してくれたのは、タチアナ・セメニュクさん(27)。大きな音がしたのは覚えているが、気が付くと、がれきの中にいる自分を、誰かが引っ張り出そうとしてくれていた。背中が痛む。体を裏返してもらうと、大きな破片が突き刺さっていた。脊髄が損傷し、脚の感覚は今も戻っておらず、回復の見通しも立っていない。

4月2日、ウクライナの首都キーウの病院で取材に応じるタチアナ・セメニュクさん(共同)

 セメニュクさんは、終始うつろな表情。「今はただ、早くこんな戦争が終わってほしいだけ」。大きく見開いたセメニュクさんの目が見た現実の悲惨さを思うと、メモを取る手が震えた。

 昼食の時間が迫ってきたので、終わるまで待ちますと伝えたのだが「おなかはすいていない。それよりも話したい」と取材に応じてくれたのは、ナディア・オスタペンコさん(64)。キーウの西約35キロのブゾワ。ロシアの侵攻開始後、日ごとに砲撃や空襲の爆発音が近づき、2月末には2日連続で地下室での生活を余儀なくされた。脱出を決意し3月1日、隣人女性の車に乗り、幹線道路を西に向かった。

 だがすぐに、道路の北側から「ものすごい数」の銃撃が加えられた。銃弾が車体を貫通し、運転手も負傷した。「戻ろう!村へ戻ろう!」。背中から出血したオスタペンコさんは、こう叫ぶことしかできなかった。

 自宅に到着すると、両脚の感覚がなくなっていることに気付いた。歩けない。自宅の地下室に運んでもらい、横たわった。逃げ込んできた近所の人が連絡してくれた、キーウに住む長男のセルギーさん(45)が救急車を手配したが、村に近づくと銃撃され、何度も引き返さざるを得なかった。

4月2日、ウクライナの首都キーウの病院で、時折笑顔を見せるナディア・オスタペンコさん(共同)

 救急車が森の中を縫うように走り、ようやくオスタペンコさん宅にたどり着いたのは4日後。血だらけのまま、電気も暖房も食べ物もなく、水だけで生き延びていた。

 脊椎や肺に食い込んだ鉄の破片を取り除く手術後、集中治療室(ICU)に。5日後、一般病棟に移ると、主治医が「脚を動かしてみてごらんよ」と声をかけてくれた。力を入れる。感覚がなかった脚が少し動いた。

 「今はね、もっと動かせるのよ」。ベッドに横たわったまま、涙ぐみながら、でも笑顔で、毛布の下の脚を懸命に、けいれんさせるように動かしてみせてくれた。脚のむくみも感じるようになった。「だから痛いのよ。でも、うれしいのよ」

 少女に戻ったかのような無邪気さで喜ぶオスタペンコさん。でも救出されずに地下室で亡くなっていてもおかしくはなかった。罪もない民間人がどうしてそんな、想像を絶する極限状況に追い込まれなければいけないのか。戦争の不条理さが病室内に凝縮されていた。

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