アメリカ文化と融合する「チャンプルー」、次々と生まれる沖縄発のスターたち 「移りゆく島の風景」沖縄日本復帰50年

振付師の牧野アンナさん(左)と「DA PUMP」のISSAさん

 「カモン、ベイビー、アメリカ」。2018年、人気グループ「DA PUMP」の「U.S.A.」が音楽シーンを席巻した。1990年代、米国文化に憧れた若者の歌。ボーカルのISSA(43)は「詞には共感した。ただ僕にとってアメリカの文化は憧れではなく、手を伸ばせばそこにあるものだった」と語る。沖縄が米国から日本に返還され50年。この間、沖縄からは歌やダンスに秀でたスターが次々と生まれた。米国の文化を取り入れることで飛躍した沖縄のポップカルチャー。その背景を探った。(共同通信=高橋夕季、敬称略)

 ▽ごちゃ混ぜの街で

 ISSAは78年、米軍嘉手納基地のある沖縄県沖縄市に生まれた。飲食店や基地のラジオ局から流れるのは欧米のポップス。アジアからの移住者もいた。「沖縄の音楽、洋楽、日本の音楽が混在する『チャンプルー(ごちゃ混ぜ)文化』の街」で育った。中学時代にダンスに出合い、高校卒業を前に、幼少期に通った芸能養成所「沖縄アクターズスクール」に戻った。既にレッスンを受けていた友人らとグループを結成。後に「DA PUMP」となった。

沖縄アクターズスクールのレッスン風景=1996年

 安室奈美恵(44)らスクール出身者が続々とスターへの道を駆け上がり始めた95年、沖縄で米兵による少女暴行事件が起き、米軍基地への反発をテレビや新聞が連日報じていた。

 「私たちは沖縄を背負っている気持ちでした」。92年「スーパーモンキーズ」のリーダーとして、安室と共にデビューした牧野アンナ(50)は振り返る。

 ▽万歳で見送られ東京へ

 71年に東京で生まれたアンナは翌年、日本復帰直後の沖縄に移住。「日本映画の父」マキノ省三の孫である父マキノ正幸が83年、沖縄アクターズスクールを開校すると、アンナは母に説得され通い始めた。インターナショナルスクールに通っていたアンナにとって、初めて経験した日本人だけのコミュニティー。「居心地がよく、すぐになじんだ」

 87年にソロで歌手デビュー。「沖縄から出ることは海外へ渡るようなもの。空港では万歳で送り出されました」。71年に「17才」で華々しくデビューした南沙織(67)や、73年以降「個人授業」でブレークし「学園天国」などを次々にヒットさせた「フィンガー5」に続こうとしていた。「沖縄から出て、歌とダンスで売れるということは、彼らまでさかのぼらないとたどりつけない夢物語でした」

 ▽シャイな少女が踊り始めた

 養成所からも次々にソロでデビューしたが、芽が出ることはなかった。「皆上京すると、さみしさやストレスに打ち勝てず、精神的に参ってしまったのです」。自身もヒットを出すことはなく、父親に呼び戻され、沖縄に帰りスクールの指導者になった。

 その頃、友人に付き添って訪れた安室が展望を変えた。事務室の前を通り過ぎ、去って行く安室を、正幸は事務員に呼び止めさせた。欧米人さながらのリズム感で歩く姿に「この子で勝負する」と決意。安室や同年代の生徒の育成をアンナに委ねた。

2000年7月、九州・沖縄サミットで各国首脳を前にイメージソングを歌う安室奈美恵さん(中央)=那覇市

 安室は、なかなか歌や踊りを人前で披露しようとしなかった。レッスンに来ても部屋の隅にいる。話すこともなく、ハンカチで顔を隠したまま発声練習もしなかった。しかし正幸は断言していた。「あの歩き方をする子が、歌えないはずはないし踊れないはずもない」。安室は、地元のテレビ局が放送したのど自慢大会で本領を発揮。本番になると、伸び伸びと歌い、踊り始めた。

 ▽日本ではなく世界を見ろ

 「奈美恵で駄目だったら、もううちからスターは出ない。ここで失敗する訳にはいかない」。正幸は、過去の失敗を糧に、教え子の精神を鍛えることに心血を注いだ。一人では心細いからと、グループでのデビューを目指した。

2000年7月、九州・沖縄サミットで各国首脳を前にイメージソングを歌う安室奈美恵さん=那覇市

 手本としたのはジャネット・ジャクソンら欧米の歌手。「日本の芸能界ではなく、世界を見ろ」と、強い意識を持たせた。手掛かりはビデオテープの映像だった。アンナは安室らと共にビデオの一時停止ボタンをカチカチ押して、パフォーマンスに見入った。完璧に踊れるようになるまで繰り返しまねた。

 間もなく上京。空手で黒帯を取得するなど沖縄色をアピールしてデビューしたが、手応えがない。アンナは一流の指導者を目指してグループを脱退。安室を前面に出した。

 ▽「沖縄は格好いい」

 米国の文化を取り入れることで、沖縄のポップカルチャーは飛躍した。

 95年、ソロ活動を始めた安室は「Chase the Chance」などヒット曲を連発。スタイルをまねる“アムラー”が社会現象になった。「沖縄のイメージが変わったことを肌で感じた」とアンナ。「10代の頃は沖縄と言えば戦争でしたが、格好いいと言われるようになっていた」。同じ養成所出身のグループ「MAX」「SPEED」も飛躍。「DA PUMP」も続いた。

 安室は2000年、九州・沖縄サミットで各国首脳を前にイメージソングを歌い、日本を代表する歌手として輝いた。1990年にブルースサウンドの「恋しくて」でデビューしていた「BEGIN」は2002年、沖縄の言葉やリズムを色濃く反映させた「島人ぬ宝」を発表。スタンダードナンバーとなり新たな潮流を生み出した。

BEGIN

 「MONGOL800」や「ORANGE RANGE」などのバンド、俳優の仲間由紀恵、国仲涼子、歌手の三浦大知、モデルの山田優…。続々と現れる沖縄発のスターは憧れを集めた。

 ▽差別でなく融合で「すてきなこと」

 全国でオーディションを行ったアンナは、沖縄出身者ならではの抜群の感性やビジュアルを指摘。琉球王朝時代から続く文化交流の影響だと考えている。

 アンナはダウン症の子どもたちのためのエンターテインメントスクール「ラブジャンクス」を設立。後にAKB48の「フライングゲット」などの振り付けを担い、日本のエンターテインメント界に新たな風を吹き込み続ける。

 父方の祖父が米国人のISSAは「基地問題に意見することは難しい」と断った上で「まさに僕がチャンプルー」と言う。ストリートダンスに傾倒し、ヒップホップでデビューした。「僕らはアメリカの音楽を継承している」と自覚。父の時代は差別的な体験があったと聞くが、共存と融合を期待する。

 「異なる文化が混ざって化学反応が起きたとき、新しいものが生まれてくると思う。半分アメリカみたいな地元にもすてきなことがあることを知ってほしい」

© 一般社団法人共同通信社