空舞った粗末な「赤とんぼ」 松尾卓次さん(86)=島原市宮の町= 被害受けるのは「結局国民」 戦争の記憶 2022ナガサキ

日の丸の寄せ書きを前に、戦争への思いを語る松尾さん=島原市城内1丁目、島原城

 「一晩中燃える工場の様子が脳裏に焼きついている。島原が全滅するんじゃないかと心配だった」
 1945年7月、米軍の艦載戦闘機4~5機が長崎県島原市を空襲。島原鉄道の列車が襲撃されたほか、官営のアルコール工場(現・宝酒造島原工場)などが機銃掃射や焼夷(しょうい)弾により炎に包まれた。島原市の郷土史家、松尾卓次さん(86)は当時10歳。第三国民学校(当時)に通っていた。戦闘機のエンジン音と機銃掃射のごう音に驚き、自宅2階から慌てて1階に下り、恐怖に震えたあの日のことを振り返る。
 長崎に原爆が投下された同8月9日、松尾さんは3歳下の弟と南高西郷村(現・雲仙市瑞穂町)の親戚宅に預けられていた。駅から歩いて1時間以上かかる山中。外で遊んでいると突然、ピカッと強烈な光が辺りを照らした。真っ昼間の閃光(せんこう)と、いつまでも燃えるように赤い西の空の夕焼けを不思議に思ったと回想する。
 空襲や原爆に関する記憶は多くはないが、子ども心に印象に残る戦時中の風景を語る。それは、「赤とんぼ」の愛称で呼ばれた軽くはかなげな練習機が、若い特攻隊員を乗せて島原の空を舞う姿だ。
 戦争末期、現在の県立島原農業高付近に特設飛行場があり、松尾さんは特攻訓練の様子を見に行っていた。戦闘用の実用機が不足する状況下、使用されていたのは複葉の飛行機でプロペラなど一部が木製。上下の羽は布張りだった。オレンジ色に塗られた機体に当時は心を躍らせたという。
 今思い返すと、赤とんぼは粗末な機体だった。しかし実戦でも特攻機として使われ、「よくそんな無謀なことを考えたものだ」と振り返る。
 若者が出征し、多くが帰らぬ人となった先の大戦。島原からも戦没者が多数出た。親兄弟を亡くした同級生や被爆した先輩らとも出会った松尾さん。戦前の道徳教育「修身」や、ほふく前進などの軍事訓練をする「教練」といった刷り込み教育、軍部の情報統制と総力戦にまい進する世論の恐ろしさを知る世代として、教育の重要性を悟った。現役時代は、中学校の社会科教師として教壇に立った。
 「間違った歩み方をしないよう、若い世代がしっかり学び、世の中を正しく判断してほしい」と訴え続ける。退職後、「地域の歴史を知ることで本当のことが分かる」との思いから郷土史家として活動。島原城資料館専門員として、島原の歴史を伝え続けている。
 遺族の寄付で、60年に建立された殉国慰霊堂が城内に今もたたずむ同城。寄贈された日の丸の寄せ書きや千人針を前に、「結局被害を受けるのは国民。戦争は二度とやってはいけない」と訴える。


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