大阪城に残る軍事遺産(番外編)軍部や政財界、言論界が国威発揚に一役「大村益次郎殉難碑」

「軍都」大阪の中心だった大阪城の周りを歩いて見つけた「番外編」。(新聞うずみ火 矢野宏)

大村益次郎の殉難碑=大阪市中央区法円坂(2021年撮影)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点に、ひときわ大きな石碑がある。高さ10メートルほどい石碑に刻まれた文字は「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」の16文字。明治兵制の創始者、大村益次郎(1824~69)の殉難碑である。

大村は幕末期の長州藩の医師で、兵学者。緒方洪庵の適塾で学び、塾頭を務めている。戊辰戦争で長州藩の軍を指揮、1869(明治2)年には兵部大輔(ひょうぶだいゆう)に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に努力した。大村は大阪城近くに兵学寮(士官学校)と造兵廠(大阪砲兵工廠)を設置し、大阪を「軍都」にする構想を持っていた。

大村益次郎の殉難碑=大阪市中央区法円坂(2021年撮影)

69年9月に京都で不平士族に襲われ、右足に重傷を負った。大阪の「浪華仮病院」(後の大阪大医学部)に転院、右脚切断の手術を受けたが、11月に敗血症のため死亡した。その病院があった近くに碑が建てられたという。

碑に向かって右側に額の長い大村のレリーフ、左側には銘文が埋め込まれている。その文面は生前の功績とともに、病床で痛みに耐えながらも国家を案じる姿が強調されている。

碑の建立は1940(昭和15)年。欧州では第2次世界大戦が始まっており、オランダとベルギーを占領したナチス・ドイツは6月、フランスをも降伏に追い込む。国際連盟を脱退し、泥沼化する日中戦争で孤立を深めていた日本はドイツに傾倒し、9月には日独伊三国軍事同盟を締結。米英との関係悪化が決定的となった年である。

碑に向かって右側に額の長い大村のレリーフ(2021年撮影)

碑の脇には発起人や賛助者の名前がいろは順に刻まれている。

国際連盟脱退時の首席全権で外相として日独伊三国軍事同盟を推進した松岡洋右、首相を務めた東條英機(1884~1948)や林銑十郎(1876~1943)のほか、陸軍大将では元帥だった畑俊六(1879~1962)、文部相も務めた荒木貞夫(1877~1966)、東京裁判で死刑判決を受けて処刑された松井石根(1878~1948)らが名を連ねる。

また、阪急東宝創業者の小林一三(1873~1957)、パナソニック創業者の松下幸之助(1894~1989)、江崎グリコ創業者の江崎利一(1882~1980)、クボタ創業者の久保田権四郎(1870~1959)、大阪商工会議所会頭を23年務めた杉道助(1884~1964)らそうそうなる財界人のほか、大阪府知事や大阪市長、大阪帝大総長や大阪商科大学長、さらには朝日新聞社社長と毎日新聞社社長も賛同している。

難波宮跡公園の隅にある「歩兵第八連隊の碑」(2021年撮影)

参考記事:◎大阪城に残る軍事遺産(9)1トン爆弾の直撃まぬがれた大阪城天守閣

軍部だけでなく、大阪の政財界や教育界、言論界までもが一体となって戦意高揚に一役買っていたのだ。

日本が太平洋戦争に突入するのは碑の建立から1年後。アジアの人々を巻き込んで未曽有の惨禍をもたらすことになる。

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