ごみ袋に放り込まれていく冊子やファイル。長崎に五つあった被爆者団体の一つで、3月末に43年近い歴史を閉じた「県被爆者手帳友愛会」。解散会見から2日後の4月1日、元役員らが慌ただしく“事務所じまい”を進めていた。
そんな中、「長崎原爆の戦後史をのこす会」の新木武志(62)と木永勝也(65)が事務所を訪ねてきた。被爆者の生活史や平和運動の歴史を記録する活動に取り組んでいる。友愛会が40年以上発行した「会報」の束や写真アルバムをめくり、2人は「ほお…」と思わず声を漏らした。「これは残さなければ」
3週間後の4月22日朝。事務所が入る長崎市興善町のビルの外壁から友愛会の看板が取り外された。「長い間ごくろうさん。本当に寂しいね」。副会長の一人だった濵田眞治(84)はぽつりと言った。
この数年、事務局長として慣れないパソコンで書面作成を担った野口晃(81)は「何とか持ちこたえてきたけど、もう限界だった」と明かす。ほうきで床を掃いていた元会長の永田直人(89)は椅子に座り込み、ため息をついた。「休み休みやらないと脚がもたない」
被爆77年。500人弱の会員は誰もが高齢で、体調不良を抱え、役員のなり手もいない-。会の消滅はある意味で、必然だったと言えなくもない。
その日の正午過ぎ、来訪者があった。「のこす会」メンバーで長崎総合科学大准教授の木永だった。=文中敬称略=
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「友愛会」の解散は、被爆者運動が曲がり角にあることをあらためて示した。同時に、被爆者が長年蓄積してきた「記録」が失われる恐れもある。膨大な資料をどう保存し、継承につなげていけばいいのか。この1カ月の動きを追った。
■「苦悩 なかったことに」 被爆者運動資料「保存は継承の形」
「県被爆者手帳友愛会」の解散が伝えられた3月下旬。「長崎原爆の戦後史をのこす会」の木永勝也(65)らはすぐに、同会が所有する資料の保存に動き始めていた。
4月22日に事務所を訪れた木永が元役員3人に提案したのは、県立長崎図書館郷土資料センター(長崎市立山1丁目)への寄贈。センター側も受ける考えを示していた。
3人は提案を了承し、木永が代理人として作業を進めることが決まった。事務局長の野口晃(81)は安堵(あんど)した表情でこう言った。「友愛会を歴史として残してほしい」
□「証言者」
友愛会は1979年8月、別の被爆者団体「県被爆者手帳友の会」から一部が分かれて結成。行政区域に基づきいびつな形で定められた被爆地域の是正・拡大に尽力し、地域外で原爆に遭い被爆者と認められない「被爆体験者」の救済にも取り組んできた。
友愛会は、定期大会や総会の議案書を「会報」として年1回発行しており、結成翌年の第2回から、解散を決めた最後の第44回まで残していた。創設当時の「結成大会宣言」や「会則」の文書、国会議員らに陳情した際の写真などもある。それらはまさに友愛会の歴史の「証言者」だった。
木永は「議案書を見て初めて、友愛会がこの年に何をして、どんな財政状況だったかが分かる」と保存の意義を強調。元役員らも公的機関に寄贈して会報を残す意向があり、「のこす会」の木永と山口響(45)は寄贈先を検討した。
□散逸恐れ
多くの被爆遺物を収蔵する「長崎原爆資料館」は文書資料などを保存、公開する機能が十分でなく、山口は「寄贈しても収蔵庫に入れられたままで活用されない恐れがある」と指摘。「県立長崎図書館郷土資料センター」と一般に公開する形での寄贈を調整した。友愛会側は、会報に記された役員の住所などの扱いに懸念を示したが、一部にマスキング処理をすることで了承した。
被爆者が亡くなり、貴重な被爆体験手記や絵画などが散逸するケースはかねて指摘されてきた。大きな被爆者団体の解散は、県内5団体になって以降は友愛会が初のケースだが、市町や地区レベルで活動する中小の団体では資料が失われた事例もあるとみられる。
□そのもの
今回、知名度のある友愛会の解散が報じられ、「のこす会」が素早く動いたことで保存につながった。今後、他の団体の解散や活動停止も現実味を帯びる中、山口は「中小の地域組織なども簡単に資料を捨てず、まずは大きな被爆者団体などに相談をしてほしい。後世の人が残された資料を見て、原爆のイメージを広げて考えることも、一つの継承の形だ」と話す。
被爆体験とは「8月9日」の出来事だけではなく、被爆者が差別・偏見にさらされ、さまざまな病気や健康不安を抱えて生きてきた戦後の人生そのものを指すのだと、「のこす会」は考える。「そうした苦しみを訴えてきた被爆者運動の記録を残していかないと、その苦悩自体がなかったことになる」。木永は保存の重要性をこう語った。=文中敬称略=