理不尽と闘い続けた伝説の政治家・瀬長亀次郎を語り継ぐ、「不屈館」館長の内村千尋さん 沖縄・日本復帰50年インタビュー(2)

瀬長亀次郎さんの写真の前で話す内村千尋さん

 沖縄には、亡くなって20年以上が過ぎた今も「カメさん」と呼ばれて親しまれる伝説の政治家がいる。米軍統治下で那覇市長や衆院議員を務め、圧政への抵抗を続けた瀬長亀次郎さん(1907~2001年)だ。5月15日で沖縄の日本復帰から50年。カメさんの足跡を伝える資料館「不屈館」を、次女の内村千尋さんが那覇市で開いている。「若い世代には、多くの先人たちが理不尽と闘い、それが今の沖縄をつくったという歴史を知ってほしい」と語る。(共同通信=兼次亜衣子)

 ▽米軍統治下の理不尽にショック

 ―太平洋戦争後の米軍統治時代はどんな暮らしでしたか。

 

不屈館館長の内村千尋さん=2022年3月17日、那覇市

 沖縄戦で焼け野原となった那覇市のスラム街で、古い瓦から雨漏りする家に育ちました。米軍統治下で、米兵が住民を殺害し暴行しても正当に裁かれない時代でした。

 ―印象に残っている出来事はありますか。

 沖縄の置かれた不条理を強烈に感じたのは、1963年に那覇市で赤信号を無視した米軍トラックが横断歩道に突っ込み、渡っていた中学1年の男子生徒をはねて死亡させた「国場君事件」です。運転していた米兵は裁判で無罪になりました。犠牲者は母校の後輩で「なぜこんな亡くなり方をしなければならないのか」とショックを受けました。

 ▽米軍が弾圧、市民は納税で対抗

 ―瀬長亀次郎さんは日本への復帰を口にすることがタブー視された時代にもひるまず訴え、共感が広がりました。「カメさんの背中に乗って祖国の岸へ渡ろう」が合い言葉のようになったと聞きました。

 父は米軍の圧政と闘い、逮捕、投獄されながらも復帰運動を先導しました。52年に住民の代表機関である立法院の議員選でトップ当選を果たしましたが、その後、立法院が所属する琉球政府創立式典で、占領軍への宣誓を拒否して米軍からにらまれてしまいます。

沖縄刑務所を出所する瀬長亀次郎氏=1956年4月ごろ(不屈館提供)

 56年に那覇市長に当選後は、米軍が那覇市の預金を凍結したり、銀行からの融資を打ち切ったりしたため、市政運営の危機に見舞われました。ところが、市民は父を助けようと、納税するために行列を作ったのです。父の当選前に77%だった那覇市の納税率は最高で97%になり、自主財源での市政運営ができるようになりました。

 ―米軍は瀬長さんが投獄されたことがあるとして、那覇市長の座から追放し、被選挙権を剥奪しました。市長在任期間は約11カ月でした。

 民主的に選ばれたのにこんなことがあっていいのかと、とてもショックでした。沖縄は日本国憲法が適用されていないから、米軍が勝手な布令や布告を出すのだと思い、許せない気持ちでした。

 

不屈館館長の内村千尋さん=2022年3月17日、那覇市

 父はその後、沖縄の人々とともに保守・革新の垣根を越えて団結し、平和憲法の下での「核も基地もない平和な沖縄」を目指しました。私も父の演説に同行し、復帰を求める集会やデモ行進で「沖縄を返せ」と歌いました。本土の理解を得ないと復帰は勝ち取れないと、船と寝台列車を乗り継いで大阪にも行きました。当時は沖縄からベトナム戦争に向かう米軍機が飛び立っており、反戦運動と相まって復帰への機運が高まったと感じました。

 ▽「不屈」の精神、後世に

 ―72年5月15日には沖縄が日本に復帰しました。あれから半世紀となる現在の沖縄をどう見ていますか。

 沖縄県には今も米軍基地が集中しています。生前の父は「やり残したこと」として、基地撤去を挙げていました。生きていたら、先頭に立って運動を続けていたでしょう。

 宜野湾市にある米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題のように、県内で基地のたらい回しを押し付けられ、県民同士が対立した結果「政治の話はしたくない」と諦めざるを得ない状況に追い込まれています。基地が沖縄に固定化される状況が、あまりにも長く続いています。

 「中国や北朝鮮の脅威から日本を守るため、米軍基地は必要だ」と言う人には「なぜそれを沖縄が背負うのですか」と問いたいです。利益以上に、大きな苦しみを米軍から受けてきたのがこの島だからです。本土のメディアはそれを十分に伝えておらず、基地に抵抗する人が差別的な言葉まで投げ付けられるようになりました。この50年で本土と沖縄の溝はむしろ深まったと感じています。

 ―米統治下の時代を知らない世代に、何を伝えたいですか。

 父が94歳で亡くなってから約12年後の2013年、足跡を伝える資料館を那覇市に開設しました。父が生前、好んで揮毫した「不屈」という言葉にちなみ、「不屈館」と名付けました。

故瀬長亀次郎氏の自筆の文字が壁面に刻まれた「不屈館」=2013年3月、那覇市

 父は「弾圧は抵抗を呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ」という言葉を残しました。不屈館を訪れる若い世代には、多くの先人たちが理不尽と闘い、それが今の沖縄をつくったという歴史を知ってほしいと思います。それはきっと、沖縄が声を上げる力につながるでしょう。

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 うちむら・ちひろ 1945年生まれ、那覇市出身。県内外で、沖縄の現状を伝える講演活動を続ける。

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