戦火を逃れてウクライナから避難した家族5人が、広島・三次市で暮らしています。複雑な思いを抱えながらも地元の人たちのサポートを受けながら少しずつ平穏な生活を取り戻しています。
三次市に住んで20年 ウクライナ出身 オクサナ・ヤシチェンコさん
― これ、何て書いてあるんですか?
「『戦争をやめて ウクライナに平和』。ずっと辛かった。見るだけで涙がたまらなかった」
三次市に住んで20年になるウクライナ出身のオクサナ・ヤシチェンコさんです。
オクサナさんが無事を祈り続けていた、いとこのブワイロさん一家が、先月、三次市に避難してきました。末っ子のポリーナちゃんは、まだ生後8か月です。
日本へ来て1か月余り…。父・ディミトルさんと長男のアレクサンドルくんは、日本語教室にも通うようになり、少しずつ日本語を覚えています。
取材中、正午のサイレンが聞こえてきました。
オクサナ・ヤシチェンコさん
「このサイレンは向こう(ウクライナ)は、1日ずっと止まらない。(三次市は)月曜日12時にサイレンが鳴る。それを忘れて、『どうした。避難しないといけない。何かあった』と、やっぱり心にまだ残っている」
ブワイロさん一家の自宅は、東部・ドネツク州のコンスタンチノフカにあります。
オクサナ・ヤシチェンコさん
「本当にきれいな丘陵もあって、楽しかった公園が、今は全部なくなった。爆撃でね」
ブワイロさん一家は、4月3日、不定期で到着した列車に飛び乗り、首都キーウを経由して、ポーランドのワルシャワへ向かいました。列車は座る場所もないほど人であふれていました。長男は荷物棚に…、幼い子ども2人は横長のイスに寝るなどして長旅をしのいだといいます。
オクサナさんからの連絡で日本YMCA同盟が現地のNGOと連携して、パスポートを持っていないブワイロさん一家の出国手続きや飛行機のチケットの費用などをサポートし、3週間ほどかけて、ようやく日本へたどり着くことができました。
当初、ディミトルさんは、「国のためにできることをしたい」と地元に残る決意を固めていたといいます。
ウクライナから三次市に避難 ディミトルさん
「とにかく3歳の子どもがお父さん大好きで、それが別れるのはどういうふうになるか、心の準備を一生懸命していた。子どもたちは大泣きだった。次、会えるかなって」
避難する途中で急きょ、家族と一緒に日本に来ることを決意しましたが、複雑な気持ちも明かします。
ディミトルさん
「(地元に)おじいちゃん・おばあちゃんが残っているし、面倒を見ないといけないので、今も辛さが残っています。国のために何もできなくて、ここで静かに幸せに暮らすのは…」
避難の最中、3人の子どもたちは高熱を出すなど体調を崩したといいますが、日本に来てからはご飯をしっかり食べ、体調も元に戻ってきたといいます。
三次市に住んで20年 オクサナさん
― パンはよく食べますか?
「すぐなくなる。食べ過ぎます」
オクサナさんが育てている畑の食材を駆使しながら、ウクライナの伝統料理「ボルシチ」と「ヴァレニキ」を作ります。水ギョーザのような「ヴァレニキ」は、手製の生地にチーズを包んでいます。
イリナさんは、食事の支度や子どもたちの世話に追われていますが、三次市の景色に心が救われているといいます。
ウクライナから三次市に避難 イリナさん
「山がすごくきれい。緑がきれい。自然がきれい。ずっとずっと毎日、散歩、川まで行っている」
三次で暮らし始めてからは、オクサナさんの友人や近所の住人が、子どもたちの服やベビー用品などを差し入れてくれました。
オクサナさん
「みんな、声をかけて何か手伝うことありますか、何か要りますかと。ほとんど何も買っていない。ちょっとだけ買ったけど、どんどん持ってきてくれるので助かります」
三次市の人たちだけでなく、「サポートしてくれるすべての人たちに感謝の気持ちでいっぱい」と話すディミトルさん…。日本語を早く覚えて、自分の言葉で感謝を伝えたいと話しています。
ウクライナから三次市に避難 ディミトルさん
「子どもたちが庭で遊んだりとか、遊びながら笑っているので、お父さん・お母さんが笑顔を見るのは安心しています。日本人にはすごく感謝します。わたしらがここで避難できて、平和になって帰ったら、たくさん、たくさん麦を作りたいです」
日本語に慣れたら子どもたちを学校に通わせたり、仕事を探したりする予定です。
「平和な生活を取り戻すため、できることから挑戦していきたい」と前を向いています。