隣家に爆弾、迫る猛火 横浜大空襲77年 風化させまいと体験者ら継承

横浜市西区付近で横浜大空襲を体験し、母と弟2人とともに避難した生井沢妙子さん

 第2次世界大戦末期の1945年5月、米軍の無差別爆撃で、わずか1時間で市街地が焼け野原となった横浜大空襲から29日で77年。体験者の高齢化や減少で歴史の風化が課題となり、ロシアのウクライナ侵攻への批判が高まる中で、身近な戦争の記憶を風化させまいと継承に取り組む人たちがいる。

◆青い空が一瞬で真っ暗に

 77年前のあの日、横浜は朝から澄んだ空が広がっていたという。鳴り始めたサイレンはいつもと違い、耳をつんざく。空は一瞬にして夜中のように真っ暗になり、すぐに辺り一面火の海となった。

 当時8歳だった生井沢妙子さん(85)=川崎市宮前区=は、木造住宅が多く集まる横浜市西区戸部町付近で母と2歳、5歳の弟2人の4人暮らし。父は前年に軍隊に召集されていた。警報が鳴ると、4人で父が出征前に自宅の畳の下に掘った防空壕(ごう)へ「またか」という思いで避難した。

 だが、普段と様子が違う。「ザザッ、ドカーン」というごう音と、人々の悲鳴が聞こえてきた。防空壕を飛び出すと、隣家に爆弾が直撃し、真っ赤な炎が見えた。「逃げよう」。母と弟2人の手を引き、薄い防災頭巾の上に布団をかぶり、外に出た。

 黒煙と炎が迫る中を夢中で走る。持ち物はない。大好きな洋服や宝物を入れたランドセルを忘れてきたのだ。

 途中の防空壕で避難を懇願したが断られた。「もういい、ここで死のう」。迫る猛火を前に母はつぶやいた。生井沢さんは「逃げられるだけ、逃げようよ」と鼓舞した。正気を取り戻し、再び4人で高台を目指した。

 たどり着いた高台からは変わり果てた横浜の姿が見えた。「皆、着の身着のままぼうぜんと立ち尽くしていた。自分も焼け野原になって初めて、横浜というまちの広さに気付いた」という。あちこちで「パチパチ」くすぶった火が音を立てていた。

 あれから77年。生井沢さんは空襲体験者の減少に危機感を覚える。「鮮明に覚えている世代は自分たちが最後。二度と戦争を起こさないため、未来の日本を担っていく若い人たちに、身近な戦争のことを伝えたい」と力を込めた。

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 「第18回横浜大空襲を語り継ぐつどい」が28日、横浜市中区の横浜上野町教会で開かれる。午後1時半~3時、参加費500円。生井沢さんもペンネームの「伊勢さつき」として登壇し体験を語る。問い合わせは、本牧・山手九条の会電話045(741)3195。

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